みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

そして遊戯は終わる

詩集「世界の果ての駅舎 詩群2014-2016」あとがき

 

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 どうしてこんなにも警官が多いのか。やつらの車はわたしが坂を降るたびに、角を曲がるたびに、そして大通りで信号待ちをしてるときにも現れる。回転灯を光らせ、静かに。加納町交差点にいたマル暴は消えた。生田町の端っこで街宣車を停めてたやつらも失せた。日の丸を掲げた表札のない新築のむかいでは覆面車が鎮座し、制服警官が立っている。駅前の遊技場、そのまえではたびたびパトカーが停まり、なにかやってる。手入れにしてはしつこい。いったいなんなのか、これでは景観ではなく、都市警官である。──そんなことをおもいながら大安亭で喰いものを仕入れる。きょうは鶏胸肉と豆腐、春雨、アボガド、カット野菜、山葵菜のサラダ。ドッレシングは青紫蘇をもとに生姜ペースト、タバスコ、バジル、オリーブ油、オリーブの実、そしてコリアンダーを少し、蜜柑の果汁をたっぷり。わたしは多くの警官たちに守られながら町を歩く。守ってくれとはいった憶えがない。たしかにやくざものが、組織が多いのもたしかだろう。下町へいけば、防弾扉にまもられ、安っぽいスポーツ・カーを侍らかした建物もある。ずっとまえには即席の街宣車も停められ、黒地に黄色で「反共」と書かれていた。おお、過ぎ去った時代よ。そうおもわずにはいられない。共産主義はすっかり過古の遺物でしかない。左翼でも革新派でもなく、ただ単純におつむの軽い連中をいう。たやすく和平を叫び、たやすく暴力にでる。わかりきった芝居だ。わたし自身は中道でありたい、やや革新がかってるとしても。過古にしがみつくのも、アスパラガスにしがみつくのもご免だ。わたしはわかりやすさに警戒する、極端なものいいに警戒する、単純化され、誇大化されたものを嗅ぎ取る、二元論から離れる。そんなものに手をださないために、かどわかされないためにも。やくざも政治家も組織社会の極点といってしまえばわかりやすい。かれらの行為や理念はよく似ている。清き1票などというたわごとは信じていない。ものをいうのは、人脈であり、数字のついた透かし入り三叉和紙である。それをわかっていないからセンター街では老人たちが消費期限の切れたデモをやる。学生たちがオルグされる。ほんとうの敵はおもてにはでない。現首相や閣僚を悪魔化したところで、思考がブロック化されてしまうだけだ。もしも憎悪するのならまずは身近なところからと、わたしはいいたい。きみの父を、母を、姉弟を、学友を、隣人たちを。そして自覚を持つんだ、みずからの怒り、憎しみ、悪意、そして虚無を。まずはそこからだ。なぜ組織社会は共食いをはじめるのか、なぜ争いが好きなのか、なぜ同志を撲るのか。そばにだれかがいるのをあたりまえだとおもうひとびとにとって主義や理念ほどおいしいものはないのだろう。わたしは生まれつき、あらゆる組織から脱落してしまったから実際のところ,どうだっていい。殺し合うのなら大切で最愛な仲間のうちでやってくれ、わたしの願いはそれだけだ。そろそろ、この詩集について書かなくてはならないからだ。ふるってるのはわたしかも知れない。

 ここに収められた詩篇のほとんどは、'14年5月21日から'16年5月11日にかけて書かれたものだ。そこから撰び採られ、ならべられた詩は、前作「38W」と較べていくぶん明るい色を持ち、《いっせいに青い鳥が飛ぶ》ようだ。これらの詩が書かれた時期、わたしは最悪といっていい事態にいた。留置場に2度、精神病院に6度も入れられ、多くのひらびとから──多くはむかしの同級生たちに縁を切られてしまってた。そういう情況にあったためか、ずいぶん大胆に事実を書くようになり、いささか露悪やつくられた態度があるにせよ、素直さが増した。そのなかでも「アニス」、「拳闘士の休息」、「労働」、「大聖堂」、そして「冷蔵庫のバックパネル」は経験をほとんど、そのままに書いている。このころ、比喩に毒されず、いかに詩を保つか、というのがひとつの課題だった。即物描写と詩情をいかに両立させるか、そんなこともたしか考えていたとおもう。 しかしだ、いずれにしてもここにあるような詩ができあがった詩の世界で受け入れられわけもなく、わたしはただただ苛立っていた。幾何学的ななにか、あるいは技術的ななにかのためにわたしは書くつもりも、奉仕するつもりもなく、ただ書いていた。いまではそんな無軌道な書き方はしなくなった。けっきょくわたしも投稿欄や賞を目指すようになってしまった。出口の見えない暮らしを少しでも変えるために。いささか齢も重ねたし、臆病になったのかも知れない。名声が欲しいとはいってない、書くための時間と場所、そして呑み喰いぐらい、賄わせて欲しいだけだ。もちろん、それだって充分すぎる贅ではあるものの。
 「二宮神社」、「新神戸駅」、「夏祭」、「聴雨」は神戸そのものに捧ぐ詩だ。この町に移ってもう7年になる。ずらかろうって気になるときだって少なくはない。たまにはどっか静かなところで過したい。それでもこの町から得たものは、具象・抽象の境なく、詩や短歌、小説にも役立っている。音楽や写真、思索にもだ。巻頭の「ロードムービー」と終わりの「天使」はもともとひとつの詩だった。「ロードムービー、ロックンロール、アメリカ、天使」という長篇詩である。この題は、キネマ旬報社刊「フィルムメーカーズ11 ヴィム・ヴェンダーズ」収録、青山真治「未だ知られざる映画作家」から採った。ロックンロールとアメリカを除け、サンドイッチとして使った。わたしはヴェンダースの映画が好きだ。むかしおもった映画監督への夢をさまざなところに再現している。この詩集は文字列による映画表現なのだ。
 これを詩画集にしようと考えたのはただ頁数が足りなかったためである。もちろんアイディアとしてはずっとあった。写真のつぎは、カラーで絵を入れたいと。しかし今回は予算の都合によってカラーはだめになり、時間の都合であたらしい絵をほんの少ししか描けなかった。もうずっと絵から遠ざかってしまっていたというのもある。どうか、赦して欲しい。わたしをゲシュタポには引き渡さないで。いまは長篇小説で四苦八苦している。自伝の部分で夥しい失敗をしている。金を喪った。いずれにせよ、ものの書き方を変えていかなければならない。題名に頼ったり、文体に酔うのでなく、ほんとうの試みと主題をもって書くこと。わたしはいつもどこかへ逃げていた。手法や題名、文体、視点に。もうそんなふうにして愉しめるときは過ぎたのだ。去年のいつだったか、「枯槁」という詩を書いた。そのときは「古今和歌集」から単語を拾いつつ、視覚(ヴィジヨン)よりも音声(サウンド)で詩を書いてみた。試みはやや巧くいったとおもっている。しばらくわたしはこのやり方で書くかも知れない。とにもかくにも、この詩集を読んでくれるひとびとへありがとうと伝う。

'18年4月15日 なかたみつほ