みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

ブコウスキー「ポスト・オフィス」'71年

チャールズ・ブコウスキー「ポスト・オフィス」'71年
Black Sparrow Press 1971

 

Post Office

Post Office

 

 


 あれは、'03年の11月の暮れだったとおもう。おれは18歳だった。同級生のNがおれを仕事に誘った。三田郵便局の配達だった。それから、それを聞いたSがほかの郵便局に誘った。場所がちかかった。でも、おれはやつが苦手だった。けっきょく前者を撰んだ。おれは弥生が丘3丁目、4丁目の区画を宛がわれた。容易い区画だというのにおれは遅かった。できるやつなら、午前中にふたつとも片づけてしまう。ビニール製の、明るい緑の、ばかっぽい上着を着て、そこらを走り回った。そして翌年の4月まで働いた。正直、手にあまる仕事だった。おれはとろいし、誤配をなんどもやらかした。遅刻の常習者でもあった。寝過ごして穴をあけこともある。局員のなかでの評判は最悪で、ロッカーの鍵をなくしてからは、服に水がかけらたりした。仕事が終わって休んでると、退勤もせずに怠けてると、うその報告が上司にあがったりした。おれは犯人を捜さなかった。不出来なじぶんを後ろめたくおもってたからだ。稼いだ金はほとんど酒に消えてしまった。あのころは芋焼酎を呑んでた。おもに赤霧島だった。でなきゃ、米焼酎の「しろ」を呑んでた。
 そういえば年末年始の給与支払いのとき、以前学校にいたMが明細を貰う列にいた。1年のとき、やつはおれからCDを大量に借りてから、前述のSに暴行し、そのまま退学になったやつだった。おれとやつは眼があった。おれはなにもいわなかった。いや、いえなかった。仕事での失敗は山ほどあった。最初はよくしてくれたひとびともおれを見限っていった。いずらくなったおれは辞めて、ドラム・セットを買った。くだらない金の遣い方だった。そして最期の1万でNとSに飯を奢った。いや、奢らせられた。やつらはがめつかった。ひとにたかることになんにも感じてはなかった。授業を中抜けしてだ。おれはそそのかれた。そして停学を喰らった。Sは大検をとって卒業を早め、Nは校長に椅子を投げ、永久停学になった。おれは反省文で教頭を感動させた。あれは文章技術を向上させるのに役立ったというわけだ。きみにもオススメする。もちろん、そんなことはどうだっていいことだ。じぶんにとって都合のいい足がかりを探してて、蹴っ飛ばされたみたいなものだった。おれはおもった、――社会は閉ざされた闘技場みたいだって。

 1950年のクリスマス前後、チャールズ・ブコウスキーは郵便局に臨時配達人として就業した。期間は2週間。その15ヶ月後に常勤となり、55年の4月まで勤める。退職後、出血性潰瘍で慈善病棟に入院。退院してトラックの運転手になり、タイプライターを買い、創作を再開した。詩を書き始めた。競馬を憶えたのもこの時期らしい。ギャンブラーを目指したものの、退職から数ヶ月、55年6月にかれは再雇用を申しでた。郵便局におべっかでいっぱいの手紙を送った。そして58年、復職が認められ、夜勤の仕分け人として働きだした。そこで12年ちかくも働く。出版人のジョン・マーティンは「かれにとって1日でも書けないことは恐怖だった」と語ってる。かれにとって恐怖が仕事も創作も人生も、なにもかもを支配してるようにおもえる。「辞めるか、死ぬか、キレるしかなかった」と語るように内勤の仕事はじつに退屈で、そして雪崩のような労働規則が人間性を覆い尽くすような描写で埋め尽くされる。1969年の晩秋、長期の無断欠勤を理由に郵便局から、解雇の通知、そしてクビになった。ブコウスキーは「もしも、わたしを郵便局から救い出してくれたら、きみが出版しきれないほどの本を書くから」と、ジョン・マーティンにいった。マーティンは月に100ドル払うことにして、ブコウスキーを専業作家として送り出した。1970年1月2日、ブコウスキーは「ポスト・オフィス」の執筆を始めた。1月25日、かれはマーティンに原稿を渡した。そのとき、作品を書きあげる原動力について「恐怖だ」と告げた。

 物語は主人公チナスキーと、それをとりまく父権的で監獄のような日常を描く。酷使される労働者、理不尽な上司と仕事、アルコールと競馬、そして過古の恋人の死、離婚、一時的で気まぐれな女性関係、恋人の妊娠と出産、娘の誕生、――主人公をおきざりする女たち、そして過密な労働環境のなかで理性を失ったかのような同僚たち。時折、挿入される、ほとんど意味を成さない会話や、悪態、人物が、作品にユーモアを与えてくれる。まるで点描のように現れては消える、他者との関係性は、主人公の認識がいかに外部の世界から孤独のうちに疎外されたものであるということを暗示的に告げてる。やがて監獄から抜けだして、たったひとりになったとき、労働は否定され、他者によって支配される人生も終わりとなる。そこではじめてかれの人生はかれのものになる。ほとんどの人間が社会のなかで「try」に終わり、「do」に変換できずに果てるなか、チナスキー=ブコウスキーの飛翔は見事だとしかいえない。

 

朝。朝になっていて、それでもおれは生きていた。
小説でも書くか、と、おれは思う。
それからおれはその通りにした。