みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

水を呑む男(2007)

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 曇ったガラスに朝がさす。その男は目を細め、コップの底に光りを見る。上半身は裸、黒いズボンをはき、カンバスの中央に立つ。かれの前には小さなテーブルがあって、視点はややその下を向く。細いラインが部屋を蔽い、太いかげがかれの姿をもちあげる。壁の絵はさかさまに飾られ、意味を半分失っていた。黄のラインが室内を走り、青のラインはかれを走る。窓には白と灰が混ざり、その向こうにシグナルが覗く。一九二〇年代の古い鉄路が通つているのだ。ぼくは目を閉じて耳を澄ます。色の向こうから呼吸音が聞えてきた。これはかれの自画像であり、告白としてぼくに話し掛ける。かれにとって絵はそれの手段に過ぎない。

 ぼくはテーブルのうえを観察してみた。銀色の櫛、スケッチの数々、洋酒の空壜、出すことのない手紙の走り書き。物語から遁れたいっぴきのとかげが干からびている。時計はもう十時を示す。時間に気をつけろ、たったひとりの友人がもうじき訪ねてくるはずだ。ぼくはかれにコップを借り、そのなかを覗き込む。日本人にしては深い眼窩が、そのとき不意にやわらいでぼくにささやいた。──なにか見えますか。まだかれはコップを握っている。口に含むか含まないかの位置で止め、じっと底を見ている。夏の名残に汗ばんだ顔が微笑むと、たちまちに外は夜。あくまで渇きを曳きながら、ぼくは水をあるものと願い、生きてきたに過ぎない。しかし触れたコップは空だったのだ。それでもかれは水を呑み終え、秋はもうまぢかにある。