みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

裏庭日記/孤独のわけまえ〈4〉

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   *

 ロージーが入ってきたとき、わたしは滝田の写真を見ていた。ロージーはわたしのそばでなにもいわず、寄り添って窓に靠れた。わたしはかの女からのことばを待ち、滝田とのことを考えた。やつがはじめてわたしの個展にやってきてドローイングを見たこと、わたしがやつのライブにいったこと、ふたりで音楽をはじめたこと。「おまえもおれも自由の代償を払ってるんだ」というやつのことば。
   兄から聞いたわ、あなたは最低よ。
  その通りだ。
   わたしのからだを見る?──傷口に触ってみる?
  そんなことじゃないんだ。
  ハンクの話しをしてくれ。
   兄のなにを?
  かれはずっとこの村にいたのか?
 「司書になるまえは州立大にいたわ。詩を書いてたのよ。大学の詩人会にも入ってた。有望な詩人だった。でも郷土史を書こうと記事を調べてたとき、祖父と組織のつながりを知ったわ。ずいぶん落ち込んでた。それでも書こうとしてた。夏休みに帰ってきたとき、詩人会から告発状が届いた。──供託金をかれが盗んだとあった。でもアリバイがあった。それを証明しようとしたとき、電話があった」。
  どんな電話だ?
   もうやめましよう、こんな話し。
   淋しいのならわたしがいる、どんなことでもしてあげる。
 いったいどんな──もうロージーにはなにも見えてなかった。ヘロインでもやったのか、眠たそうな眼でわたしを捉え、押し倒した。寝台のスプリングが鳴り、12匹の菟のみたいにうごきだした。わたしにはどうすることもできない。ロージーはまともな女じゃない。きっとだれかに薬と命令を受けてる。そのからだは真っ白で、冷たかった。わたしはかの女のからだを引き剥がし、カウチに運んだ。
  おれは淋しくなんかないよ。ハンクについて訊いてるんだ。
   いったいなにさまのつもり?
   そんなに知りたきゃ本人に聞けばいいことよ。
  いいや、かれは話さないだろう。
   わたしを連れだしてくれる?
  ぜんぶがわかったら。
   ならいいわ。──電話があったの。きみの記事を買い取るって。それでハンクは待ってた男に記事と資料を渡したの。
   詩人会は金のことをまちがいだと謝った。だけど、そのあと高級車がハンクへ贈られて来た。ハンクは返しにいった。
  あの映画館へか?
   そうよ。
 階下から跫音が聞える。窓の下には銀色のルノーがあった。おかしなことにならないうちに、わたしはすべてを聞きだすつもりでいた。だが遅かった。ロージーの握った拳銃がこちらをむいている。小ぶりな自動式だ。らりってるぶん余計にあぶなかった。ちくしょう。
  おれを殺すのか?
   いいえ、愉しんでもらうの。
   日本人ってけっこうおもしろいんだから!
わたしがかの女の手をとったとき、男がふたり入ってきた。ひとりはメキシコ人、もうひとりはレッドネックと呼ばれる貧乏白人だ。チェックのシャツにデニム、そしてブーツ。レッドネックが口火を切った。──ロージー、おまえは喋りすぎだ。ふたりとも映画を観る必要がありそうだな?──わたしたちはルノーに乗せられ、映画館へきた。上映作品のリクエストまではできないみたいだ。入り口ではビル伯父が待ち構えてた。──いったいどういうつもりなんだ?
 貧乏白人にわたしはいった。やつは答えず、車を駐車場へまわすと、降りてドアをあけた。ふたりとも降りろ。──わたしはビルを見た。ライフル銃を持ち、かたくなな面持ちで立ってる。衛兵みたいだった。わたしたちはなかへ通された。座席を越え、舞台にあがる。スクリーンの裏手に事務所があった。あるいは拷問部屋かも知れない。
   教えてやろう、ここだけの話だ。
 レッドネックが喋りだした。首にナイフの痕がある。──あのとき、ハンクはここへ車を返しに来た。社長からすれば当然面子をつぶされたってところだ。ものを察した三下がハンクを吊るし上げようとした。とちりやがった。反対に腕を折られた。ハンクは恐怖からか、ほかのやつらにも立ちむかった。そのとき社長の女が入ってきた。見物のつもりだったらしい。だが撲られたやろうに巻き込まれ、舞台から落ちたんだ。頭を打ち、重度の癲癇と診断された。ものや金で済む話じゃなくなった。社長はビルに電話をした。いい提案を期待してだ。そのやりとりをたまたま聞いてたロージーはたったひとりでここに来たんだ。かの女は薬を仕込まれて7日間、ここで過ごした。解放されたときには毀れてしまってたよ。薬と男なしじゃあ、生きられない娘になってた。──ロージーがくすくすと笑った。そこにいる全員を嘲るみたいに嗤ってた。

   *

 滝田への線はどこかへいってまった。やつはロージーと寝たのか。ホテルにもどってロージーに訊いた。──ええ、もちろん。大人なふりして初(うぶ)なひとだった。あなたのほうはどうなの?──おれのことはかまわないでくれ。──わたしは苛立っていた。ロージーを救えないこの村の大馬鹿どもや、映画館のやくざたち、そして兄だというのに妹を守れなかったハンク、甥や姪をほったらかしに組織とつながるビルにもだ。怒りではちきれそうなわたしを眺めてロージーは子供をあやす母のように髪を撫でてくれた。わたしたちは窓にもたれて泣いている。雨がふってる。北のなかの北へわたしはむかいたかった。──あなたの話しを聴かせて? おれは、──わたしは話した。
 冷え切った家庭に育った。父と母は半目しあって、とてもじゃないが愛も情もなかった。日本の経済がわるくなっていくなかで、大人も子供も不満を募らせてった。あたまのわるい、勉強もスポーツもできないおれは道化を演じることでなんとか逃げてた。それでもわるいやつらが寄ってたかって家庭や学校の憂さをおれの存在で晴らそうとした。だれにも助けてもえなかった。父はいった、おまえができそこないだからと。そして折檻した。母はいった、がまんなさいと。おれの家は貧しかった。ほかの子のようにいい服も着られず、ビデオゲームもなく、ただハンマーや手斧だけがあった。おれは絵を描きつづけた。どんなにばかにされてもやめなかった。
 やがておれは恋をした。12歳だった。かの女へのおもいをたったひとりの友達にいった。かれはおれを裏切ってかの女に告げ口したよ。それからはさらなる地獄がつづいた。生きながら焼かれるように学校へいった。いくしかなかった。かの女の眼はかつてのようにやさしくはなかった。おぞましい容姿、だれもがおれから立ち去り、おれの存在から色を失わせた。大人になっておれは母を苛み、父を撲った。かつてされたことにあらゆるかたちで仕返しを遂げた。けっきょくだれも愛してくれない。それでも滝田だけはおれの相棒だった。やつのいない世界で暮らしてゆく自信なんかない。
 ロージーが寝台へ導いてくれた。おれは、わたしはかの女の胸のなかではじめて愛に気づいた。そしてかの女をまっとうなといころへ連れていくんだと誓いをした。わたしはもうだれにも負けない。負けてはならないんだ。──ロージー、この町をでよう。

   *

 聖人のふりをして神の水を飲み乾す
 われわれはだれも素直なふりをして
 身内でないものを火破りにかけてる
 われわれはひとりではいられないくせに
 身内しか愛せない──いいや、
 身内すら愛すことができない
 だから苛立ちに火を放つ

  かつて母だった女がいった
  家族は他人のはじまりだと

 牛乳をからになるまで呑み、
 みずからの厩に入っていく
 もうだれにも燃やされないように
 身内だけの道徳に踊り狂うばかどもよ、
 おまえらなんかひとり残らず、
 半額シールでも貼られちまえばいいぜ 
                        15/02/09

   *

 おれは驚いた。3年になって初日、クラス表に友衣子のなまえがあったからだ。でも喜べない。どうすることもできないとわかってたし、この学校にはもういくつもりはなかった。またも7組。からっぽな女校長の挨拶に飽き、教室に入る。詰め襟が息苦しかった。担任はまたも牛尾、そして透もいる。かれとはもう遊ぶこともなくなった。どうやらおれのお目付役のようでだ。いまや小奇麗な連中とよろしくやってる。おれは制服がいやでならなかった。深夜徘徊はつづいた。終わりはない。父とはまともに話なぞできない。母とも、だれとも話はできなかった。かつてなら道化性があって、笑いを生むこともできたが、それは人間ぎらいにとってかわった。気づいたとき、もう身の置きどころはなかった。学校にも家にもいられない。最愛の友衣子がこんなにもちかくにいるというのに、おれは離れなければいけなかった。おれが醜いからだ。
 湯本香樹実の「夏の庭」と太宰治集をもって夜を歩く。ときどき大学生のハイカーたちがおもしろがっておれに声をかけてきた。だれもかれもしがらみのうちにいる。名塩グリーンハイツの電話ボックスでラジオを聴きながら夜を明かした。「真夜中ラジオ・ユアーズ」が好きだった。やがて朝になると室に帰る。父がいるときは麓の新興開発地で過ごした。家は1軒もない。あるとき、あそこを勃っ立ててストリーキングをして、散歩の老人に見つかってしまった、慌てふためいた、逃げた。こんところにひとがいるなんておもわなかった。夜明け、電話ボックスで「夏の庭」を読み終えた。涙だ。

   *

  夏が来て、くるりの「さよならストレンジャー」を買った。毎日幾度も聴きながら歌詞を書いた。じぶんでも信じられな
いぐらいことばが迸り、うちなる響きが谺した。新譜が待ちきれず、「ファンデリア」も買った。「もしもし」はもう手に入らなかった。「街」を買った。おれはアルバムがわりに歌詞集をまとめた。「普遍的→不連続線」、「ちまたのくうらん」、「sweet bitter candy」と。冬になってガットギターを弾いた。そいつは母のものった。弦は下3弦だけで、Dやその類似コードしか弾けない。小6のとき、そいつで「イエスタデイ・ワンスモア」を短音弾きした。夏休み。おれは家の仕事にかりだされた。姉も妹もいるのに、男はたったひとりだけ。早朝の草刈りから、大工仕事。うだろうような暑さがたまらない。倒れそうになって叢に尻もちをついた。2×4の角材がおれをめがけて飛んできた。背中を直撃し、激痛が走る。
   仕事をしろっていってるやろ!
 こんなことが毎年起きる。母屋に屋根裏をつくり、離れにフローリングを敷いた。車庫の屋根にコンクリートを流し、小屋を立てる。ちょっとでもへまをしようなら、逃げだそうなら、薄く切られ、撓る木材を鞭におれの手を打った。おれの足を打った。──痛い!
   痛いに決まってるやろ!
   おれのいう通りにできへんからや!  
 朝の6時から夜の23時まで、家の仕事はつづいた。父のラジオからばかげた流行歌が流れる。まちがえるたびに父はいった。
   おまえなんか馬鹿でもチョンできることもできん!
   そんなんで世のなかにでてなにができる!
   おまえなんか人間やめてルンペンやれ!
早う首くくって死んでまえ!
 限界だった。夏の終わりの夜、おれは灯油をペットボトルにつめ、好きな音楽をもって家をでた。どうにでもなってしまえ。母がおれを見咎めた。灯油なんかでなにする気や!──くそったれの役立たずめが。歩いて1時間と半分、駅に着いた。梅田まで乗った。東商店街の雑踏をいくと、若い女たちが客引きをしてる。声をかけられて「家出してきた」といった。もしかしたらいいめに遇えるかも知れない。おれはギター弾きに声をかけた。なにかやってくれ。
   なにが好きなん?
  エレファントカシマシだよ。
   エレカシはできへんけど、斉藤和義って知ってる?
  「ソファ」って歌が好きだよ。
   それはいまできへんけど「歌うたいのバラッド」って曲をやるよ。
 おれもギターを弾いて歌いたくなった。ぼくはかれに歌詞集を見せた。幻冬舎から送り返されたものだった。かれはそのなかから「旗」という詞を撰び、即興で歌った。朝になるまで音楽について語った。おれはどうしたものだろう?──テレビ局にむかって歩いた。乞食や浮浪者たちがあちらこちらで寝てた。関西テレビのそばの、コンビニまえでひとりに声をかけられた。痩せ細って、光りに焼かれつづける老夫だ。憐れだった。 
 「にいちゃん、パン奢ってくれ」──わるいけどぼくもルンペンなんです。かれを背におれは歩いた。わるかったかも知れない。でもできることはなかった。路地裏で灯油に火をつけた。そしてそのまま歩き去った。火は弱く、消えそうだった。夜、またおなじギター弾きを探した。でも見つからず、終電まじかの駅にいった。母に電話した。死にたいといった。駅員が事情を呑み込んで列車に乗せてくれた。おれはいくじなしだ。たったひと晩で帰ってきた。そのあと父の車で駅員に菓子折りを持ってった。父は死にたければ死ねといった。はじめて音楽雑誌を買った。「Rockin'on japan」だ。エレカシの記事が小さく載ってた。ライブで「おはようこんにちは」や「待つ男」をやり、新曲はロックだと告げてた。帰りに叔父の家にいった。おれは車のなかでただただ話が終わるのを待ちつづけてた。
 後日、エレファントカシマシのベストと「浮世の夢」を買った。生々しいことばの連続だ。やるせない日々のなかで支えのひとつになってくれるとおもった。その通りだ。さっそく歌詞をまねて書いた。「夢のちまた」の美しさにうっとりとした。そしてシングル「ガストロンジャー」がでた。文字通り、衝撃だった。なにもいえなかった。学校にいくふりをして森のなかに遁れた。そこで昼まで音楽を聴き、あとは生協のスーパーでやり過ごし、放課後になってから学校にいった。友衣子のことはもうすっかり忘れてしまってた。もはや、かの女は、はるか遠くのなにかだった。じぶんにいまさらできることがあるとはおもわなかったし、なにもしなかった。

   *

 次の正月、おれは山口病院という精神科にいった。治療を望んだけれど、だめだった。医者が親に照会したんだ。おれはしかたなく大阪までいった。ポルノブックを買い、薄汚い外国人から馬鹿高い指輪を売りつけられた。たったそれだけで金がなくなった。
 そのころ、ひとつ下の妹は問題を抱えてた。吹奏楽部でいじめに遭ってた。木村真美や西林絹子たちから。かの女らは口の利き方の知らないけつの穴だった。おれはあるとき音楽教師の佐藤先生に妹のことを問われ、聞きかじりの事実を話した。妹はそいつに泣きながら怒った。さらにいじめられるとおもったからだ。高校にあがってからは退屈しのぎか、憂さ晴らしか、じぶんのからだを切り刻むようになった。あるいは癲癇の発作を起こし、前後不覚に陥ることもしばしばだった。かの女は幼年期、風呂場で転び、後頭部を切っていた。ちょうどおれと風呂へ入ろうとしたときだった。扉の金具に頭を打ちつけ、眼を開けたまま声もださなかった。おれは悲鳴して親を呼んだ。救急車を呼んだ。
 おれは、もちろんろくでもない兄で、いまかの女がどこに棲んでるかもわからない。死んだのかも知れない。兄妹愛などけつくらえ、というわけだ。ここにも父の計略が働いてて、落ちこぼれたものをさらに追いつめ、逃げ場をなくさせ、兄妹間にわざと対立を煽り、攻撃させ合った。なんにせよ、やがて灰は、灰へと還る。気に喰わなかった。両親がきらいだ。なぜならひとの親というものほど、罪人はこの世にいないからだ。もはや姉とも妹たちとも話をしなくなった。通じ合うものがなにもない。父の計略はぜんぶ巧くいってた。植えつけられた攻撃心と反感はなかなかに絶えることがなかった。
 家父長主義なんざ滅ぼすべきだ。おれもおもった、だれかが書いたみたいに《父親を殺したいとおもわなかったものなどいるのか》と。おれはたびたび姉たちに悪態をつき、かの女たちは嘲笑った。家族愛というものはおれの世界には存在しない。家のなかで安心できる場所がなかった。どこにいても監視の眼があった。いつ父は死ぬのだろうかと算段した。あと30年は生きるだろう。それまでおれ自身は生きていられるだろうか。殺すか、殺されるしかないのかも知れない。
 毎朝、撲り起されるとき、反撃への意志を確かめる。でもなにもできないまま時間は過ぎていく。まったくばからしいことに父は、おれが正しい技術や、認識を得る機会を奪いながら、おまえは劣ってる、なぜなら姉も妹も優秀じゃないかと捲し立てた。おれは誓った。あのやろうを死ぬまでいたぶってやる。母は子供が成人すれば離婚する、そう幾度もいいふめた。でもけっきょくそうはならなかった。

   *

   山火事


 (こいつを書いてるのは生田川上流の長距離バス発着場。たぶん発表はしない)。

 詩を読むのは
   かなしい
    ことか

 沼に空砲を撃つみたいにむなしいときもある
 なにも感じなくなったぼくはただ頁をめくる

     さようなら
 愛しかったものたち
  ぼくらのけものの
      魂しいが
  自動車に轢かれて
      死んでる

 きみはぼくの友だちじゃない
 たったそれだけのありきたりなこと
 ぼくは詩が読めなくなってしまった

 山火事がきれいな夜を
   ずっと待っている

                                  15/3/44

   *

 「精神科はあぶない」というのが、ものを知らない母の見解だ。おれは有野台にある心療内科へいった。ロールシャッハ・テストや、ほかにもマークシート式のテストを受けた。処方された薬のせいで脚に痙攣が起った。通院はやめた。テストの結果はわからない。おれは、おれをみんなとおなじようにしてくれるところを探してた。あいかわらず歌詞を書き、放課後、詞や絵を見せるためにだけに職員室へ通った。美術教師、国語教師、音楽教師が目当てだった。やがて秋が来た。どうやっても修学旅行にはいけなかった。旅先は長崎だ。みんなが怖かった。なにをいわれるのか気が気でなかった。友衣子のちかくへいきたい。それでもあきらめるしかなかった。でも写真はべつだ。おれは担任に頼んで、女の子の写真を焼きましてくれように頼んだ。でも恥ずかしくて、友衣子のはだめだった。
 かの女のことを考えるだけでおかしくなりそうだった。技術教師が笑った。
   校内はじまっての傑作だ!
 けっきょく写真は届かなかった。ふざけやがって。その娘は、たったいちまいすら注文してないと担任はいいはった。そんなことがあるもんか。以来、おれはかれらを相手にしなくなった。なにをいわれても上の空だ。ちくしょう、おれを値踏みしやがって!──雨のなか、上村透が土産をもってやってきた。写真でもそうだ、「長崎はきょうも雨だった」。
 担任の牛尾は何度も家にやって来た。学校に来いという。教師としての評判が赦さないんだ。成績落第者のための授業もあるという。いざ覗いてみれば暴力者気取りのぬけさくどもが、まじめに机にむかってて、笑いものもいいところだ。どうしてやつらなんかと勉強するのか。おれは廊下で口笛を吹いた。10人ほどが怒ってでてきた。そのとき麻田という、ちゃらちゃらした女が来て、おまえも勉強しろといった。1回だけという名目でおれは加わった。山田が寄って来ておれをからかった。それきりおれはでなかった。はっぴいえんどや、ゆらゆら帝国を聴き、時間を潰した。
 おれは絵入りの歌詞集をつくって、長谷に渡した。喜んでくれた。そして8組できらわれものたちと話し、かれら、かの女らがどうしてきらわれるのかを理解した。そしてじぶんがきらわれものなのも、当然理由があった。つまり集団とのコードを持ってない。それは隠語でもいいし、笑い方でもいい。とにかくそれがおれたちにはなかった。不要なコードが多すぎる。ひとこというためにどれだけの手練手翰が必要か、おもっただけでも嫌気がした。
 じぶんにとって不快なものは不快でしかない。その点、みな素直ともいえる。郷家麻衣は8組で教師の手伝いをしてた。毎年だれかに虐められてるらしかった。それも小学校から。おれとおなじだ。あるとき、透がいった。あいつとは話すな。──けれども、おれがだれと話そうがそいつは、おれの自由だ。おれにはそれほどまで他者におもうところがなかった。あっちが接触してくる以上、そこに悪意がない以上は拒む由しはない。卒業式のまえに写真を撮った。小6とおなじくなんとか友衣子のちかくに寄りたい一心だった。でもおれにはもう野心はない。じぶんで刈ったひどい坊主頭で、ぶかっこうなまま端っこに立ってた。どうすることもできない。細見のやつが青縁の眼鏡をかけてる。色気づきやがったか、このおかまやろうは。卒業式で、でたらめに歩いて賞状をとる。予行演習すらでていなかったからだ。みなが怪訝なつらをした。どうでもよかった。帰ろうと廊下へでたとき、中島のやろうが声をかけて来た。じぶんの卒業演説をじぶんで褒める。にやにやにやにや、と。
   自画自賛じゃねえか。
 おれがいうのを遮って、あるいは聞えないふりをして、まだ自慢をつづてける。こいつはふるってる。こんなやつを支持するくさったやつらしかここにはない。やつの隣の眼鏡やろうは1語も口を利かず、微笑とともに黙ってる。それもまたむなくそがわるかった。やつらを置いておもてへでる、道。家まで15キロばかり歩く。

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   *

 福知山線に乗ってた。道場を過ぎたら桜が土手をつづき、斜向かいの女の子がふたりはしゃいだ。気分はわるくない。エレファントカシマシは「浮世の夢」を聴きながら、これからいく学校の、その正体について考えようとしてた。受験結果発表だ。受験の日はひどい雨で、片足を水でいっぱいの溝に突っ込んでしまった。きょうはいい天気だ。三田駅に着き、ふたりの女の子を追いながら歩いた。どっちも途中ではぐれてしまった。受験は合格だ。なんてこった。おれは答案をまともに埋めることもできなかったというのに。有馬高等学校定時課程への入学が決まった。おれとしてはどうでもよかった。公衆電話で母に伝えた。それから電車でもどった。鼻がむずむずする。花粉がいたるところに舞ってた。駅ビルのオアシスで何人もの、制服姿とすれちがった。どこにも友衣子はいなかった。祖父は姉の進学祝に2万をくれてやったが、夜学のおれにはなにもなしだ。ただ時計をくれた。そいつは随分あとになって売ってしまった。
 入学者説明会の日。おれはレコードを買った。サニーデイ・サービズ「24時」と椎名林檎勝訴ストリップ」だ。入学説明会には遅れた。怒り顔の父が怒声をあげた。やつはいったいなにに怒ってるんだろう。怒っても、おれのものを毀してもおれ自身の魂しいを毀すことなんかできやしないのに。わざわざ自身の無能を見せつけてるだけじゃないのか。入学式でおれははじめてじぶんの中学の評判のわるさを知った。学生証の写真を撮りにいったとき、全日制のやつらがおれの出身校を訊いた。
   塩瀬あたりにいったほうがよかったんとちゃうん?
 もうひとりが来ていう。
    友だちできたんか?
   ああ、できたで。
 そのあと、かれらと出会うことはなかった。ほかにも女の子たちが山口をわるしざまにいうのが聞えた。おれはうすうす感づいてはいたが、それでも少しショックだった。そのあと体育館で同級生たちと顔を合わせた。おれのうしろには強面のヤンキーが3匹もいた。一瞬ここへ来たのを悔やんだ。訓示を聴き、それから写真を撮った別館に移った。みんながなまえを呼ばれる。おれが呼ばれとき、女の笑い声がした。小迫恵だった。不愉快なくそ女。
 おれは2日めに休んでしまった。父はおれの室で暴れた。そして正座させ、3時間も4時間も怒り、午前2時にようやく終わった。ちょうどラジオではエレファントカシマシのライブを放送してた。それがどうしても聴きたかった。録音したかった。でも、だめだった。おれは父の満足することばを、正解としてだすために6時間をかけた。おもいだしたくないことばでいっぱいになった頭を水で冷やした。くそ。翌日学校へいった。西宮名塩阪急オアシスで、かの女の声を聞いた。
   ミツホ!
 友衣子だ。かの女は田中良和と連れ立ち、歩いてる。まるでカップルだ。似合いの雛人形みたいなふたりに妬心を憶え、怒りにふるえる。そしてかの女の笑顔がおれの胸に痛い。光り。あいかわらず落ちぶれてるおれ。かの女はおれがいまどうしてるか訊く。おれは答えた。そして逃げたくなった。かの女の輝きに耐えられない。まだ時間も早いというのにわかれた。切符を買って列車を待つ。おれは後悔した。もっとかの女について知ることもできたのに、田中のやろうに1発喰らわすことだって。でもおれはもどれなかった。暗転。
 学校はなにもかわりはなかった。柄のわるいやつと、そうでないやつがいた。ただ比率がわるいほうへかたむいてた。小学校と中学校がおなじだった小迫と前田というふたりの女と、中学が一緒で、試験でも一緒だった村雨は3人ともわるいほうだ。宮原というやつがよく声をかけて来た。おれたちは気があって話し始めた。そのいっぽうで不良たちとは仲がよくなかった。便所で照屋と近藤にからかわれたときだ。おれは「やめろよ!」といった。照屋は凄んだ。細長い躯に金色の鶏冠(とさか)が生えてる。   調子に乗んなよ。
 でぶの近藤といえば、「あのひとに謝れよ」ばっかりだ。ひとのことを気遣うまえにやることがあるだろうよ。少なくとも豚が豚を喰うのは感心しない、そうおれはおもった。──でも、しだいにやつらの仲間がおれを追いつめようとしてた。クラスでいちばんだとおもってた北甫由子は近藤に誘われて一緒に帰った。北甫はフリースクール出身の色白の女の子だ。妬心にかられ、家路に就く。阪西というでぶ公がおれに話しがあるといった。でも、あしたにするといって去る。どうやらでぶに縁があるようだ。太宰治「ろまん灯籠」を読みながら、ひとりきり電車に揺られた。
 翌る日の放課後、やつらの群れが出口を塞いでた。おれは洗剤の容器を片手にした。目潰しくらいにはなるかも知れない。廊下から校門を見る、色とりどりの猿どもがおれのことを狙ってる。勝てっこない。せっちんづめだ。おれは校庭にむかって窓をあけ、繁みのなかへ身を隠した。終列車がやって来るまで。

   *

 宮原明とはじめて口を交わしたのは、かつが毀れたおれの眼鏡をいじってからだ。怖い顔してるといってやつは笑った。やつはバンドをやりたがってた。でも家にあるギターは親類の子供に毀されてしまったという。おれたちは音楽について話した。体育の時間、宮原におれは近藤が不良だといった。かれはそいつを告げ口した。とにかく下っ端と見做した相手からなにかをいわれるのがきらいなでぶなんだ。おれが夜の道を下校してるとき、やつはやってきた。小迫と一緒に歩いてる。かの女とは小学4年のころ、演劇部をやってた。
   おい、おまえ、おれのこと不良やいうてるそうやな!
 やつの強い口調に面喰らった。──だっておまえがそんなことばを遣うからだよ。
   なにひとりでびびっとんねん。
   照屋さんも怒らせてなぁ!
  あいつは関係ないだろう!
   あいつっていうたな、照屋さんに教えてやるからな!
   覚悟せぇや!
 ふたりが駅前の来るまでおれは追った。鉄板入りの鞄を持って。おれはでぶの近藤にちかよって震えた声でいった。おい、おれを嘗めるなよ。おれは照屋なんかに負けるか。虎の威を借る豚野郎!──おまえら全員、壁蝨(だに)どもを殺してやるからな!──あたり構わずわめいた。小迫は嗤った。それが悔しくてやつを鞄で撲った。その鞄には鉄板が仕込んである。
   おい、女の子にしていいことやないやろ!
  ああ、わるかったよ。
   ちゃんと謝れ!
  ごめんなさい。
 ずっと小迫は嗤ったままだった。後日、京都の養老院への訪問を控えてた。おれは色紙に「さっさと死んだほうが迷惑がかからない」と書いて問題になった。どうでもいいことだ。けれども長生きだけが取り柄の余剰精神には我慢ならないものがある。照屋がおれの胸ぐらを掴み、凄んだ。どいつもこいつもその手の漫画の読み過ぎだ。たったいちど「あいつ」と呼ばれただけで。大した沽券、見あげたまごころだ。
   おまえ、おれのことアイツっていうたそうやな!
  ええ、いいましたよ。
   なんやと、おい!
 やつはヤンキーよりも、広告看板に鞍替えしたほうがいいとおもった。よく目立つだろう。ピンク色のパンティを穿くがいい。よく似合うだろう。おれは頭をさげた。1回きり、軽く蹴られただけで終わった。見かけによらず、卸しやすい。それでも小迫はおれのことをぶちのめしてやると息巻き、近藤がいった、
   学校終わったらおまえ、大人しく来いよな?
  どれくらいかかる?
   車で迎えにいくから待っとけや。
 放課後になって、おれは近藤にふたりぶんの手紙を渡し、窓を飛び越え、校庭を突っ切った。端っこのフェンスはひくく、隣家に繋がってる。そいつを登って飛び降りた。やつらのだれひとり、追いつけない。そのいっぽう、小迫はおれの家へ電話した。バックにやくざがいるとわめき、おれが帰ってきたときには落ち着いたらしく、撲った落としまえをつけろといい、手紙の内容に突っ込んで来た。女は撲られてもの文句はいえないとか、やくざの情婦は人間ではないなどとおれは書いてる。そして最後に「金が欲しければ警察署にでも、裁判所にでもいけ」と書いてた。ひとを怒らせるのがおれの得意だ。電話口でがなり立て、ひたすら怒鳴る。小迫は冷静になったのに、おれだけが燃えてた。姉や妹がうれしがった。低能な女たち。明くる日、校門で近藤に出会した。やつはおれに謝り、さきを急ぐおれにむかって、
   待ってよ、ナカタくん。
 か弱い声でいう。チェックのシャツがなんとも不格好だ。やつの脂身がべったりと浮かぶ。でも、おれはやろうになにもいわなかった。ほかのヤンキーどもとおなじく、じぶんから辞めるのが眼に見える。やつはこれから動物農場にもどるのか、それとも屠殺場か。いっぽう眇(すがめ)の小迫は黙ったままで、照屋もなにもいわない。やつの取り巻きたちも。おれは、じぶんでじぶんの身を守った。ただそれ以外の撰択肢がなかっただけだ。
 おれは宮原に誘われて遊んだ。けれどゲームもプリクラもおもしろくない。金のむだだ。ひたすら余剰でしかない。少なくとも男同士でやることじゃない。こんなことを好くのはなにもない閑人だけだ。おれは閑人と友人になっただけなのか。野球部にも誘われたが、おれは頑なだった。スポーツなんてものは苦手だ。あるとき、体育の授業でおれはなにもしなかった。端で立ってるだけだ、幾度もからかわれて、しぶしぶ加わり、バスケット・ボールを追う。やがて綴木が笑いながらいった。
   なんや、できるんや。
 北甫が答える、
   やる気になったんとちゃうん?
 おれは怒ってなにもいえなくなっていしまった。くそ、あの淫売どもめ。かわいくおもい、気になりはじめた北甫にいわれるのは、もっといけすかない。悔しい。かの女は緑色の上着がよく似合ってた。情報処理の授業のとき、かの女のうつむき顔におれは惹かれてしまってた。もう救われる見込みはなかった。いずれは蔑みのなかで蜂の巣だ。おれは感情に蓋をした。夏になって小学校の創立記念式典があった。中邑夕子という6年時の転校生が司会役だ。色黒で、口さがない女。おれはレコード屋までいくために姉妹と車に乗った。かの女たちは式典で演奏することになってた。おれにはそんなもの空々しいだけだ。おれが「エレファントカシマシ5」を買って帰る。姉がいった。
   長谷さんが会いたいっていってた。
 会ってどうなることもない。おれが会いたいのは友衣子だけだ。深夜、ムーンライダースのシングル盤を聴いた。「Sweet bitter candy 秋~冬」だ。NHK FM の「ミュージック・スクエア」で知った曲だった。
そのころ、早生まれで、1歳下の北野巧正とはよくふたりで帰った。かれはおかしなやつだった。みんなにきらわれるか、嗤われるかだ。いつも罐チューハイをまわし呑みしながら歩く。かれは自動車が好きだった。その手の雑誌をいつも学校に持って来てた。みんながうんざりするほど、車の魅力について喋る。あるとき、おれは漫才の台本を書き、かれに一緒に演じないかと誘った。そのせいでしばらくかれは休んでしまった。かれこそおれにとっての痴聖だ。かれは父親の仕事を手伝ってるらしい。名ばかりの体育祭にかれの姉が来てた。みな嘲笑った。
 幾度か、名塩駅でかつての同級生と出会した。でも友衣子とはいっさいなかった。かわりに中井が穢らわしく絡んできたり、槇田が鼻でおれを笑い、小寺という男が卑しい笑みを投げかけたり、小山と寺島がおれに気づかずに去ってったり、碌なやつらじゃなかった。あるときは坂本姉弟に遇い、父親の車に乗せてくれたこともあった。楽器を持った小川哲平と話し、セッションしようといったこともあった。でも、どうしたわけか、大抵はくそだ。

   *

 午。起きると犬がいる。牝の子犬だ。おれはスメハチで撮った。フィルムはモノクロだ。学校から帰れば、やつがどっかでくそをしたと父がいた。いやに嬉しそうに燥いでた。おれは自部屋に篭った。おれには話もなく、犬を飼うのが信じられなかった。なんて仕打ちだ。おれの意見も存在もどうだっていいとわかった。おれは猫を欲しかった。子犬は近寄るたびにおれの手を噛んだ。それはそのたびにやつのけつを蹴り、うしろ足を踏んづけた。しだいにやつはおれに懐くようになった。おれはやつを自由にさせたかった。幾度もリードを外し、そとへ放してやった。こんなところにはいるべきではないのだ。おれもおまえも。どっかの映画で聴いた科白に、《犬好きは身勝手、猫好きは尽くす》というのがあった。おれは後者だった。犬の濡れた媚態がすごく卑しくおもえてならなかった。
 仕事はなかなかなかった。洋食屋を落とされ、給油所を落とされた。あとは面接にすらならなかった。自己アピールなんざおれにはできなかった。他人の靴を嘗めるみたいなことが赦せない。仕事は探せばある──そんな父の辞はいんちきだった。おれは大人でも子供でもないろくでなしだった。仕事をしろよと父はいう。それは砂漠で水脈を見つけるみたいなものにおもえた。やがて夏休みになった。またおれは下男として家の仕事に使われた。屋根裏部屋は完成した。つぎは離れの屋根を補修した。朝から夜更けまでやり通しだった。こんなのはおかしかった。おれだけが家の仕事で、みんな楽をしてる。成績がいい?──そんなの関係ない。室内を片づけ、今度は裏庭の間伐をやった。なんでもありだった。父のおもうところ、仕事は無限にある。夏のあいだじゅうずっと父の休日大工につきあわされた。母屋の瓦をはがした。父は屋根裏を半分解体し、そこに室をつくるつもりだ。ばかげてる。叔父が手伝いにきた。瓦をはがき、土を払い、タール紙を大型ホッチキスで留める。そして木枠をならべ、そのうえにスレート瓦を差し込んでいく。その色はばらばらで不愉快に明るい。愉快なことはなにもない。8月の暑さ、空調もない屋根裏、真夏の光りのなかでどうにもできなくなった。おれは倒れ込んだ。父も相当参ってる。けれどもやつは怒鳴りちらし、おれを椅子に坐らせると、肩まである、おれの長い髪をめちゃくちゃに切り落としてしまった。もはや、なにもかもに無力で抵抗すらできない。黙ったまま頭髪が無作法になっていくのを眺めた。もうどうしようもない。こんなことが赦されるんだ、この世界じゃ。やがて母が帰って来た。おれを見ていった。
   どうしたの?
 興味のない、まったく平素な声だ。気分がわるくなって自部屋に籠もる。The pop groupが叫んでた。Don't call me pain! pain! pain! pain! Don't call me pain!──新学期がはじまるまえにおれは髪をきちんと切った。床屋のやつらが笑った。当然。黒縁眼鏡をかけた。タワーレコードエレファントカシマシ「奴隷天国」と、eastern youth「雲射抜ケ声」を買った。シャツも明るい赤や緑にした。みんな注目した。わるくないようだった。女の子たちが褒めてくれた。いい気分だ。まえの髪型も女の子みたいで可愛かったのに──と綴木がいう。いったい、どんな美意識でそいつをいってるんだ?──当惑を憶えた。ただおれは以前、はじぶんで髪を切ってただけだ。まるきりおかっぱだったけど。散髪代を親に頼むのがいやだった。
 町田康や、車谷長吉を読みながら授業を受けた。あるいは坂口安吾を読みながら受けた。おれは数字が苦手でたやすい四則計算すらできず、幾度も恥ずかしいおもいをした。若い女の数学教師はおれを心配してたらしい。からかわれもした。西内という年上のヤンキーくずれが笑った、
   近くの小学校にいったらええ。 
 放課後、綴木がいった。
   ナカタくん、ユウコを送ってやって!
 でも北甫は坂を颯爽と降ってる。自転車でだ。かの女はあっというまに見えなくなった。追いかけることもできない。宮原がおれのあとを着いてくる。正直、もう、やつが鬱陶しくてならない。
   きょう、いやなことがあったんやろ?
 そう執拗に問う。答えは否だ。本心からそんなものはなかった。さっきだって由子と話せそうだったんだ。それでもやつは喰い下がる。おれは一瞬左眼でやつを見た。
   おれのことを睨んだやろう!
 やつは激昂し、おれの胸倉を掴んだ。「見まちがえだろ」──おれはいった。やつはおれの背嚢を掴み、あくまで責めにかかる。いったいどういうつもりなんだ。おれは背嚢をそのままやつの手に任せ、帰途に就いた。相手にしてられなかった。胸や首はやつの指で傷だらけになった。翌日、学校から電話があった。リュックは職員室にあるという。おれが登校したとき、宮原はすでにいた。
  しばらく距離を取ろう。
 そういったのはおれだった。男女のなかでもないくせにだ。おれは見当ちがいところで暴力に走るやつにはうんざりだった。やつは挨拶だけでもしようといったけど、おれは次第にそれすらしなくなってった。放課後の掃除、宮原は坂西に怒ってた。なにがあったのかはわからない。からまれたらしい。帰り道、おれはいった。
  触らぬ神に祟りなしだ。
 宮原はその辞に感動したといった。おれとしてはただのでまかせでしかない。なぜそんな眼に遭うのかは当人にもわからないといった。やがて宮原は白石や阪西からいやがらせをうけてるといった。かれはなにか道具を使って脅しを受けてるらしい。白石はおなじ中学出身の不良だ。やつをどうおもうかっておれに訊いた。近藤の時をおもっておれは本音をいわなかった。   きらいではない。
 やつはおれからレコードを借りた。10枚もだ。特にくるりが好きらしい。それから雨の夜だった。やつは白石に挑みかかった。傘でやろうを滅多打ちにした。おれは廊下を決して覘かなかった。おれがやつを庇ってやらなかったのが原因だってわかってるからだ。不良たちが色めいた。照屋がいった、
   ナカタくん、やつの住所知ってるか?
  いいえ、忘れました。
   忘れた?
 それでおれたちはそれきりだ。やつは退学した。おれは金のために父の仕事を手伝った。かつて父が働いてた尼崎の金属加工工場で清掃夫をした。おれはギターを買った。青いサンバーストのストラト風だ。「ライブキング」という中国製。母のガットギターよりもはるかに握りやすかった。フェンダー・アンプも手に入れた。宮原に電話をかけた。やつは怒ってて、ひどく罵倒された。
  貸したもの返してくれよ。
   なんやねん、いまさら!
  落ち着けよ。
  たしかにおれがわるかったよ。
   おまえ、きもいねん!
   電話かけてくんな!
 当然だ。おれはやつを見棄てたんだ。けっきょく貸したレコードは返ってこなかったし、やつの両親はそんなものはどこにもないといった。みんな棄てられたんだろう。学校にはやつの両親から苦情来た。父はでるトコでたらええといった。でもおれはそんなことしなかった。おれは「奴隷天国」を聴いたあと、酒をしこたま呑んで、夜の道を歩いた。そしてまず嘉村大介の家でおだを挙げた。やつを罵り、おれは音楽をやってるんだとわめいた。つぎに上村透の家の玄関でくだを巻いた。
  おれは三島由紀夫を読んだんだ、
  永井荷風を読んだんだよ!
  おれはかつてのようにばかじゃない!
 やつはいった。
   おれの高校の先生がいうとったわ、
   しょうもない大学いくくらいなら短大いったほうがましやとな。
 帰り際、「これから自殺する!」と叫んだ。それから寺内の家にいった。呼び鈴を鳴らしてもだれもでない。竹村の家を探した。みつからずに雨が降ってるなかを闇雲に歩いて帰った。次の日はひどい宿酔いと頭痛だけが残った。ひどい頭痛、父の車で三田へいった。本屋で「Rockin'on」を買った。帰りは雨だ。おれは駅から歩いてた。途上、ワンカップを買って呑みながら道路工事に出会した。作業員がいった、──あの車、女の子乗せたまま行きよった!──なにが起ったかはわからない。ただ酔いながら雨を浴びてた。

   *

 授業中、ヤンキーどもがうるさい。けれどもかれらの個体数は時間とともに減ってった。生態学を学ぶのなら打って付けのマルタかも知れない。小迫なんか呵られ、「いま歌詞書いとんねん!──邪魔すんな!」とわめいた。あんなくそばかがいったいどんな詞を書いてどんな音楽に合わせる気なんだ?
 あるとき隣の永易黎(れい)がいった、「おまえ、耳のかたちがええな。ピアスせぇへんか?」──断った。そのころのおれの習慣といえば、授業のあとに黒板をきれいに拭くことだった。どういうわけか、そんなことをはじめ、放課後の掃除まで頼まれるようになった。さすがにそいつはいやだった。綴木に頼まれてもおれは断った。どうしようもなく気まぐれで、いい加減なやつに見えただろう。

   *

 あるとき、おれは寺内の家のそばを通って駅まで歩いた。なにげなく裏庭を覘く。わずかに開けられた窓と立てかけられた角材が見えた。どうやら業者が出入りできるように工夫したらしい。そしてどうやらもう、かの女たちは棲んでないらしい。その夜、おれは忍び込んだ。からっぽの室を抜け、階をあがる。右手にいけばかつてのかの女の室だ。昔しのかの女をおもいだす。素敵な洋服を着て歩きまわる、かの女の姿を。そこに立ってしばらくおれは眺めた。ただそれだけだ。

 ぎりぎりの成績で2年めにあがった。小迫も前田も村雨も退学してた。小迫はまだ保ったほうだけど、前田美香は1学期の初めで停学を喰らって辞めてた。集団で喫煙してるところを押さえられたらしい。かの女はおれをひどくきらってる。母はかの女がひとりグリーンハイツから麓へ歩いていくのを見たといった。それに退学もかの女の母親から聞いたともいった。どうでもいいことだ。やがてみんながやる気をだし、授業は難しくなってった。吉本と村瀬と木長という編入生が入って来た。みな年上だった。いちばん若い木長という女も1年上だった。あとのやつらは少なくとも5年喰らってた。おれはかれらと仲良くやろうとした。でもなかなか、できなかった。あるとき、永易がやって来た。
   おまえ、ギターでやってるってほんまか?
 どこで知ったのか、やつは知ってた。情報処理の山田経由だろう。授業中にそんな話をしたんだ。
   一緒に同好会にいかへんか?
 おれはいくことになった。年長の男と、年下の女がいた。やつらはすぐに消えた。帽子のなかのゴキブリみたいに。その夜、おれとやつは「古賀ちゃん」という居酒屋で呑み、やつの室に泊まった。やつの母親がいうには永易も詩や小説を書くらしかった。おれはかの女に駅まで送ってもらった。
 夏になって棚卸しの仕事を母が見つけてきた。釣具屋「フィッシュ・オン」。店子の出入りが激しい場所だ。おれはいちばんめの妹と一緒にいった。どっかで見たことのある顔があった。松本美枝と郷家麻衣だった。休憩の時間になってようやく郷家と話をした。おれはギターをやってるとか、レコードを買う予定だとかいった。
   来年も来る?
 かの女は去年緊張のあまり寝込んで、この仕事に来られなかったと聞いてた。おれはといえば日にちをまちがえたうえに寝坊した。──ああ、金が要るからな。──気どった調子でおれはいう。賃金は現金払いだ。6千と半分。帰り道、生協のスーパーへいった。酎ハイの罐を手にとる。そのとき、近所の主婦がおれを見た。驚いた顔でこっちを見る。おれは弁解しようと慌ててかの女を追った。けっきょくやめて酒を買った。残りの金で bloodthirsty butchers の "yamane" に Number girlの "SAPPUKEI" を買った。おれはたびたび学校を休むようになり、大阪のレコード屋をまわった。当時、「食えない、やっていけない」と音楽雑誌でぼやいてたキングブラザーズの音楽に惚れた。まず赤盤を買い、つぎに星盤、そしてバルブ盤を買った。おれの気分にぴったしだった。知らないあいだにおれは北甫由子が好きになってた。かの女の甘えるみたいな仕草がたまらなかった。でもかの女は10歳もうえの男とつき合ってるといってた。まわりが子供に見えるとも。フリースクール出身で、かつては虐めをうけてたらしい。でもヤンキーたちに感化されたのか、2年になって髪を染め、ばかげた赤いパーカーなんかを着てるのはいやだった。放課後、永易とギターを弾きながら、かの女をおもった。
 おれは孤立してる。だれにも話かけられないし、冗談もいえなかった。というわけでトリスを買って学校にいった。呑みながら授業を受ける。鬱積したものを晴らそうと何度も酒を呑んで授業にでた。まわりのやつらは笑った。30まぢかの中澤という女が驚きの声をあげる。──そんなつよいの呑めるの!
   おい、酒臭えぞ!
    すごい臭いやな。
 そこへ担任の濱崎が入ってきた。──ナカタ、こっち来い!──見つかって停学になった。自習室でひとり反省文を書いてると綴木と北甫と西谷が入ってきた。綴木がいった──字、きれいやな。──北甫が微笑んだ、
   もうわるいことしたらあかんで。
 木長というあばずれはすぐに辞めた。おれと永易と白石でよくつるんだ。でも実際には道化役として、あるいは金蔓として招かれただけだった。ある晩、みなで酒とサラダを買って永易の家にいった。酒を呑んだ。テレビを観ながら好きな女優をいいあった。やつの父親がテキーラをだしてきた。おれは呑んだ。やつの室で白石がリキュールをおれの口に突っ込んだ。そしておれの陰茎を触る、皮カムリだとわめく。おれは三上寛の「ひびけ! 電気釜」をがなる。《風呂屋の婆のせんずりだ!》。気がつくと倒れ、口から泡を吹いてた。便所にむかって階を降りる。みつけられなかった。物置に迷い込み、そこで失禁してしまった。ようやくそこをでて、風呂場へ走った。シャワーを浴びて正気になろうとした。おれはなんてことをしちまったんだ!──翌日はスウェットを借りて授業にでた。どうしてもでろとやつはうるさかった。あたまが痛み、からだが震える。
 あとになって菓子折をやつの母へ渡した。リビングでは弟が炬燵で眠ってた。かれは出席日数が足りず、中学を留年することになってるらしい。中学を留年だって?──そんなことがあるのか?──母親に訊いた。
   制度が変わったのよ。
 はじめてライブハウスにいった。雨のなか、神戸チキンジョージへ。エレファントカシマシとハリーの共演だ。遅れてしまった。ちょうど「俺の道」が終わるところだ。新曲はおれの耳に馴染まなかった。とくに「ラスト・ゲーム」のリフを聴いて、なんて不似合いな曲をやってるんだとさえおもった。それでもアルバムを聴いてるうちに慣れた。その頃、西山奈津という旭川の14歳と文通をはじめた。かの女はインディー・ロックが好きで、学校ではマンドリンをやってるといった。でもたった半年でかの女のほうから音信が途絶えてしまった。おれにはまだなにもかもが早すぎたんだ。対話なんざできちゃなかった。はじめて輸入盤を買った。Cursiveeastern youthのスプリットだ。日本とちがいテープで封がされててはがしずらかった。そのあとfugaziの"Red Medicine"やThe good lifeの"Black out"をずっと聴いてた。おれは学校にいかなくなった。学祭もどきの催しで、羞ずかしいめをやらかしてしまったからだ。緊張して歌も唄えず、ギターもろくに弾けなかった。下級生どもが笑った。だから休むようになった。おれは学校を辞めると担任にいった。
   いちど社会にでてじぶんを試したい。
 担任は感心したみたいで、それがいいといった。おれも湧きでる勇気を感じながら帰った。帰って来ると父は怒り、姉が室に入って来た。高校だけは卒業してといった。そしておれの本棚を眺め、安吾の「白痴」を見つけ、授業で安吾をやってるという。「日本文化私観」だ。おれはそいつを要約してみせた。姉がうなずく。かの女とわかり合えたのはこのときだけだ。秋の午后、父はおれをカブに乗せ、名塩まで送った。
   勉強しろ。
 おれはいった、
  おれ、ばかだから。
 苦々しいおもいで三田にいき、坂を上った。途上、ジュースをいっぽんくすねた。丘に登って市街を一望する。なにものかの寵を喪うのが怖い。棲む場所を探そうとおもい、鈍行列車で京都の深草までいった。ちょうど国語の授業が最后通告だった。急いでもどった。授業に間に合わなかった。落第だ。でもどうしてか、おもった。点数をあげればなんとかなるかも知れない。それからは放課後、ねばった。補習を受けまくった。数学は55点まであがった。ほかの科目もましにはなった。教師たちは「やつをなんとかできないか」──そう考えはじめた。でも最后の試験に近づくほど、むずかしく、むなしくなった。居残りもやめ、帰るようになった。数学の御膳がおれを追いかけて来た。
   落第決まってきついンはわかる、
   でもあきらめんと最期までやろうや!
 でもおれは帰った。時間はみるみる失われた。そして試験、数学は45までさがった。なにをやってもだめなんだ。保健のテストでおれはわざと回答を書かなかった。あるいは書いたところを消した。ほかの教科もなげやりだ。翌る日、保健体育の濱崎は失望を露わにして迫った。
   どうしてあんなことをしたんや。
   おまえをなんとかしてやりたい、
   先生らはそうおもってたんやぞ。
 ほんとうにそうなのかも知れない。でも、なにをやってくれたというのか。いまもってわからないままだ。喪失。濱崎は転任してった。恥ずかしいおもいのなか、つぎの年度を待ち、落第の顛末を「京都旅行記」という短篇にした。なにもかもがやりきれないなかで始まり、終わる、そしてふたたび始まる。

   *