みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

詩画集「世界の果ての駅舎」限定無料公開

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世界の果ての駅舎


 またも詩集を公開します。紙版が欲しい方は「製本直送」のオンデマンド印刷までお願いします。販売もしております。また喜捨をくださる方は、三井住友銀行・藤原台支店 普通 7489267 までお願います。御自身で印刷される方は、可能であればこの詩集を気に入りそうな方たちへ配布してみるものいいとおもいます。


跋文「何時くるかキイ・スミス」森 忠明

 三月末、筑摩書房から『1968 文学』なるアンソロジーが贈られてきた。四方田犬彦福間健二が篇著である。ひらいてみると私がセブンティーンの頃に作った長詩が二篇載っていた。中上健次永山則夫の詩にはさまれて。解説で四方田犬彦が「時代をすぐれて体現しているにもかかわらず、不当なまでに蔑ろにされたり、また一度も照明が当てられることもなく、忘却に付されてきた文学作品」だけを選んだ、と記しているのをみて、久しぶりに微苦笑の美を味わった。
 のっけから私事で、何を言いたいのかというと、中田満帆のこの詩集も五十年ぐらいは「不当なまでに蔑ろにされ」るだろうな、ということである。
 当時十代の私には拙詩と自分の価値などわからなかったし、半世紀後の今なお分からない。エジャクレーションに似た快感があったのをおぼえている。本来、暗数としての詩と天涯淪落の詩人に学者流評定は無粋の極みであるわけで、たとえ蔑ろにされたってどうともないのである。

 

 

 『世界の果ての駅舎』──正直、この詩集の真価も分からない。あとは好きか嫌いかしかないだろう。文質彬彬を理想とするガラパゴス系の私としては、「文」に傾きすぎた彼の詩よりも短歌のほうを高く買っている。あえて選べば「檻」という詩が好きだ。〈どうか信じて欲しい/ぼくというぼくが/新しい事実のための/かげだということを〉。
 生という人間動物園の檻から出て自由になるためには、「かげ」という名の解錠キイがどうしても必要であり、〈ぼく〉はその一要素だ、といういささかのヒロイズムがいい。でも〈ぼく〉は、そのキイの鍵穴の位置も、永劫に分からないものなのだ、ということも分かっているらしいことに泣けてくる。それゆえに悶えすぎる詩や悟りすぎる詩が多い詩集であり、やはり真の読者を得るには半世紀を過ごさねばならないように思われる。
 しかし「かげ」という無聲が、あらゆる有聲(文学)に勝ることを、かの白居易ならずとも音楽家であり画家でもある中田満帆は知っている。生あるうち、檻の鍵穴とはちがうホールやマウスを見つけだした彼は、独りジェイル・ブレイクに成功するかも知れない。そうしたら新たなキイ・スミスとして、詩か、それ以外の合鍵を気前よくばらまいてくれるはずだ。
 「檻猿いまだ死せず」──私は楽しみに待っている。

 

詩人・童話作家

 

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以下、販売先

www.seichoku.com