みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

マイ・ポリティカル・ペーソス

 

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 子宮発の地下鉄に乗って

 
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 このくそ社会について書くまえに、わたしは自身について語ろう。わたしは病院や飯場を転々とした挙句、'11年12月より神戸市中央区より生活保護を受けている。そのあいだに自閉症スペクトラムなどの精神疾患から入院を繰り返し、いまでは障害等級が2級にあがってしまっている。社会復帰を目指し、カウンセリングを受けている。去年の夏にAUから機種変更し、格安スマホに変えたのだが、料金引き落としの設定が不完全なままだったことに気づき、30万ちかく請求されている。プリペイド携帯を持とうにも、それも叶わない。わたしはかつてのように倉庫や郵便局で働きたいが、返済までにいったい何ヶ月かかるやらだ。
 最近「チャブ 弱者を敵視する社会」という本を読んでいるが、日本にもおなじような問題はある。数々の社会的弱者や、経済難民を罵る単語が日夜つくられている。それがいつ公の場所──テレビや国会などで語られるのか、わたしは推し量るのみである。経済政策の失敗はずっとつづいたまんまだ。株価をいたずらに吊り上げ、景気が回復したという。しかし株価と景気はなんの関係もない。むしろ株価の低いアメリカやイギリスのほうが景気はいい。B層とか下流社会だとか、負け組とか、そんなくだらない言葉遊びでいったいどれだけ時間を浪費しつづけて来たか、考えてみるのもいいだろう。わたしはだれかがいったように「貧困の再生産」すらできない素人童貞だ。わたしは福祉を喰いものにしているつもりはない。わたしは物理的な「じぶんの居場所」を求めて、20年近くさまよって来た。だが福祉はあまりにも無責任だといっていいだろう。個別の案件について包括的(医療、精神、日常生活、就業)に対応すべきだが、実際は金を渡してお終いだ。しかもたちのわるいことにわたしは分割支給となっていて、たとえばマットレスとか、眼鏡とか、まとまった金で必要なものすら買えないのだ。小出しにされた週一回の支給でやりくりしなければならない。ものごとはいっこうに解決しない。季節はどんどん変わっていく。よほど本人に意欲がない限り、骨抜きにされる。仕事のためのスキルが欲しいとか、仕事のために身なりを整えたいとか、一般就労枠で働きたいとなったときに生じる諸問題。スキルを習う金、身なりのための金(カッターシャツ、スラックス、革靴)、障碍を隠して面接を受けたいなど。そういった問題にはまったく我関せずなのだ。
 「チャブ」ではサッチャーによって大規模産業が国外移転し、その空いた空白を埋めようとしなかったことが、貧困層の誕生の原因のひとつとして語られる。日本ではむしろ工場はもどって来てるという。ほんとうに?──去年いくつかの工場と面接したが、やはり経験者優遇、しかも超過勤務と休日出勤に耐えられる人間のみだった。経営陣はばかなのか?
 SNSではじぶんのほうがもっと貧しい!──と貧乏自慢をしているたわけがいる。輝かしいほどの奴隷根性だ。そして幾多の場所で父権主義と懲罰主義、あるいはそれをミックスした憎悪と嘲笑が横溢し、政治家たちはここぞとばかりに弱者を切り捨てる発言をし、いまでは中間層まで削っていくつもりのようだ。じぶんたちの労働問題すら解決しようとしない大人たちによって中間層は埋められてしまった。法人税の引き下げ、消費税の増税、福祉の削減。世間を分断し、特権階級を甘やかし、消費行動を抑える。そのさきは焼き畑だ。政府はNISAのような株式投資を国民に勧め、日本を移民国家と多国籍企業の国にしたいひとびとがきょうも政治献金を送る。移民の人権?──そんなものをだれが気にかけるんだ?──けっきょくわたしも落とし穴に落ち、骨抜きにされてしまったのだ。わたしは20代をどぶに変えてしまった。30代はそうはいかない。けれどもそのためにできるのが創作だけというのは笑い話にもならない。ヨーロッパの金融家によって、中央銀行によって経済はずたずたにされ、やがては国同士の諍いを煽られる。メディアはコントロールされ、生き残るのはいちばん大衆先導に長けたばかものである。どうか、戦争もやがては個人の自己責任の範囲に入れられるだろう。家が壊れた、車が燃やされた、──それは買い換えられない貧乏人の不努力です。いまはいくら危機が煽られていても、国連には「敵国条項」があり、日本に戦争をする権利はない。やれば総叩きに遭うだけだ。だが銀行家たちはどうでるか?──こればかりは推し量るほかはない。
 ところでわたしの姉は大学院をでて1BMへ就職した。結婚もしているらしい。かの女は家庭のなかで特権的な立場にいた。わたしはといえば、教師から京都建築大学校を勧められ、見学した。寮に入りたかったが、父のひとことでだめだった。そのあとは美術学校や音楽学校への進学を希望した。「金にならない」と反対された。挙句、アウトソーシングの工場労働に不本意ならがら正社員として入り、研修中に辞め、それからはずっと詩を書きながら肉体労働に従事した。父の教育方針はこうだ、できるものには惜しみなく与え、できないものには叩き、奪うというものだった。わたしは学習障碍だった。四則計算もままならないまま中学を過ぎてしまった。登校拒否もひどく、深夜徘徊もあたりまえだった。やがて夜間高校に入り、そこで5年を過した。わたしはなんのスキルもないまま社会へ飛びだした。わたしはみんなを怒らせたい。炎上させたい。もはや気の弱い詩人としての人生なんか、けつくらえだ。わたしは理不尽や不合理を告発するし、戦いつづける。それ以上に生きる意義はいまはないからだ。社会を荒廃させたいと願うのであれば、わたしやそれに類似したひとびとを叩くがいい。わたしは逃げるつもりはない。

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 わたしは制度としての天皇に反対している。人間としての存在としてではない。かれらのための制度は事実上身分制度であり、かれらを告発することはいまだに日本全体の禁忌でありつづける。純粋な敬愛よりも個人崇拝の色が濃いうえ、かれらは宮内庁や政治家、官僚に利用されつづけ、多くの神のように勝手に心情を代弁され、個人としての私見や意思を表すことが正常にできているとはいいがたい。さらなる人間宣言が必要であろう。皇居は場所を移し、縮小し、それに似合った警備のもと、かれらは住まい、自由を謳歌すべきなのだ。しかしそのいっぽうで日本が果たして来た戦争責任についても言及されなければいけないだろう。われわれは他国の犠牲で儲けながら経済成長をしてきたからである。朝鮮、ベトナム、ほかにもいっぱいだ。GHQが占領の都合のために利用したに過ぎない天皇制を本当の意味で再構築しなけばならない。明治以前からやり直すしかない。正しく権力を分散し、中央集権から降りるのだ。それにはまず天皇という日本の空洞を掘り返さねばなるまい。
 わたしは死刑制度にも反対している。戦争も含め、すべての殺戮に否をいわねばならない。国や個人の境なく悪は、悪なのだということだ。終身刑の導入を急ぐ必要がある。それは死刑になるために起される無差別犯罪や、労働力不足の緩和の助けにおもっているからである。くわえて日本の捜査機関及び司法が「足利事件」で見せたような醜態を根本から覆す意思がないという事実を知っているからである。
 経済学は虚構である。学問ではない。銀行家、金融家、それに媚びた経済学者たちがじぶんたちの地位と富を強化するためのデマでしかない。不当に株価をつりあげ、物価上昇を呼び、消費税をかける。そして富裕層に都合のいい施策を提言する。弱者には自己責任だ。かれらはものはや民衆の敵である。なぜ運用に失敗した年金のつけをわれわれが払うのか、なぜ緊縮財政によって引き起こされた「失われた20年」のツケをわれわれが払うのか。なぜ労働市場の過剰な規制緩和の失敗をわれわれが負わなければならないのか。なぜ政府は通貨発行権を国のものにできないのか。われわれは金から自由にならなければいけないだろう。これ以上、金融業者や経済学者の喰いものにされたくなかったら、声をあげなくてはいけない。

 数年まえのことだ。アイドルグループの元メンバーが当選した。しかしかの女が地元の沖縄問題に不勉強であることを理由に避難するひとびとがわんさといた。わたしはかの女を擁護し、「かの女は障碍を持つ子供のために出馬した」と書いた。ところがかの女がやったことは既婚の神戸市市議と懇ろになることだった。相次ぐ神戸市議の不祥事、その反省のない市政。そして政策をつくれない元アイドルが当選し、なまえも知られない議員たちが、あるいはまっとうな資質を持った人間が票をとれないという異常事態がずっとつづいている。苫米地英人がいうようにテレビにでていた人間が選挙にでるのは禁止すべきだ。公平公正でないからである。そして現職の議員がテレビにでて、顔を売るのももちろん禁止せねばならない。蓮舫のような元タレントには否を突きつけねばなるまい。被選挙制度も変え、供託金の代わりに政策課題とそれについての論文を直筆で提出させるべきである。

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 わたしは中学時代、みずからを右派と見做していたし、その手の本ばかり読んでいた。しかしこの歳になって左右の対立は無意味でしかなくなった。かれらは見たいものしか見ようとはしない。中央へむかってボールを投げない。つねにはらからたちしか眼に入らないのだ。SEALsはただただ騒々しいだけだった。どうしてデモなんか繰り返す?──それなら選挙で中枢にひとを送るべきだろう。かれらもけっきょくは数に陶酔して歌っているだけだった。賞賛している老獪たちはあまりにも無責任過ぎた。
 千葉麗子の「さよならパヨク」は杜撰な本だった。つくりが、ではなく、その文章と論理展開がだ。かの女はけっきょく左側から右側へ移ったのに過ぎない。教養を磨かないもののいく着くのは特定の宗派への盲信でしかない。「教育勅語」の再評価に関心があるようだが、あれがどうしてあの時代に必要だったかが抜け落ちている。それは社会の荒廃に、儒教譲りの精神が洗脳として支配者層に有利だっただけだ。いまのように社会が落ち着き、犯罪も減ったなかで、なぜあんなものがまたも必要なのかをかの女自身、根拠を考えているとはおもわれない。菅野完の「日本会議の正体」は文章がひどすぎる。隙間だらけ、改行だらけの作文に口語と文語の入り混じった歪な文体が展開される。まさか編集者の不手際でもあるまい。ただ内容以前に仕上がっており、それを千円ちかくだして買う人間の気がしれなかった。ひどい商売とおもったのはケント・ギルバートや石平らの中韓叩きの本で、これはあまりにも無用な対立を煽ってるとしかおもえない。かれらがもしCIAから支援を受けているとしてもまったく驚かない。かといって相次ぐ安倍首相を非難する本もおなじように対米独立を狙うかれを降ろすためのCIAから支援があってもおかしくはない。わたしは陰謀論者ではないのでこのへんでやめておくが、報道も言論もだれかの意図があってのことだということは、認識しておきたいものだ。
 チョムスキーは「アメリカの言論は自由だ」といっている。それをそのまま受け取るつもりはないにせよ、かの国が自由のために戦って来たことは頷ける。ただかれは「自由はあるがメディアが報道しようとしない」ともいっていて、そのシニカルさに戸惑ってしまう。日本の言論はどうなってるのか?──新聞記者はただサラリーマンで会社や上司のいいなりでしかない。経営権と編集権は持っている人間がおなじだ。記事の評価システムもない。匿名性が蔓延り、ジャーナリズムというのは太鼓持ちの惹句になり下がっている。それにかれらの多くが官僚主義的で、文章の書き方も知らないのだ。印象操作やデマゴーグ、煽動のための意図されたヒステリーは当然のこと、露骨な記事のもみ消しも目立っている。いま信じられるメディアはなんだろう? 「アゴラ」か、それとも「サイゾー」か。ともかく一度、新聞とそのクロスオーヴァーメディアであるテレビは死ぬべきだ。かれらがなにをやって来たのか、三文記事に時間を費やし、考えることを多くのひとびとから奪っていっただけだ。官製報道だけでいったいなにがわかったというのか。取材すらできていない。記者クラブの腕章を後生大事に守ってきただけだ。
 日本人はいまだにディベートができない。フレーズしかいえない。壊れたレコードのようなものだ。国会中継の大半がそれだ。論点を整理し、そこに根拠を与え、正当性を示し会わせることができない。予め用意されたセリフを繰り返すだけである。話の通じる相手がどこにもいないのだ。じぶんの考えだって他人あるいは権威という担保がなければ、なにもいえないのだ。一度、われわれから思考を奪っている、この日本語というものについて考える場所が必要だろう。 
 内閣のだれかを引きずり降ろすことは名誉ではない。多くの記者が勘違いしている。あたらしい価値観や選択肢をたえず更新し、それをひとびとに、対等なかたちで提示することである。安倍憎しはあきあきだ。なぜかれに支持があるのか、それは簡単だ。マスメディアにいちばん多くでているからだ。それをメディアが叩いてる。かれらはじぶんたちの生きているシステムすら理解していない。いい加減、「森友」なんかやめて、緊縮財政についてまじめにやったほうがいいはずだ。経済学という銀行家の虚構をいじくり回している場合じゃない。わたしにはあまり時間がない。いまいえるのこれだけだ。

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 猶、この文章の題は、村木道彦歌集・収録「ノン・ポリティカル・ペーソス」の引用であることを付す。

 

村木道彦歌集 (現代歌人文庫 24)

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チャヴ 弱者を敵視する社会

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いまモリッシーを聴くということ (ele-king books)

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日本人だけが知らない戦争論

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メディア・コントロール―正義なき民主主義と国際社会 (集英社新書)

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