みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

フィリップ・ジアン「ベティ・ブルー」'85年

 

ベティ・ブルー―愛と激情の日々 (ハヤカワ文庫NV)

ベティ・ブルー―愛と激情の日々 (ハヤカワ文庫NV)

 


フィリップ・ジアン「ベティ・ブルー」'85年
Philippe Djian - "37.2° LA MATIN" '85

 

 ぼくのノート類がバーゲンセールの陳列品みたいに四方八方に散らばった。ぼくはそれが気に入らず、落ち着きがなくなった。「いったいなによ、これは?」彼女はいった。「だれが書いたの、あんたなの……?」


 作家、詩人、画家、音楽家、泥棒、──なんだっていい。自身の表現で、方法で生きようとする人間が好きだ。"もっともアメリカ的な作家"というのがフランスでのジアンの評価だとかなんとか、どっかでそんな話を聞いた。この小説は冒頭からブローティガンエピグラフで幕を開け、終盤にはケルアックの一節が科白としてでてくる。主人公はかつて作家志望だった中年男、35歳だ、なまえなんかない──そんなものはいらない。かれはバンガローで下働きをしながら生活してる。住人のための買い出し、洗濯物の回収、水道、配管などなど。テキーラ、チリ・コンカンが好物。あるとき、出会ったばかりの恋人が転がり込んでくる。かの女はウェイトレス、25歳、なまえはベティだ。
 ベティは気性の荒い女で、主人公をふりまわす。ある夜、ベティは主人公が書き溜めた小説を発見する。そしてかれを天才だとおもい込み、バンガローの主に楯突き、ついには主人公の家を燃やしてしまう。ふたりはパリへ逃げ、ベティの妹リザのもとに転がり込む。かの女はアパートを経営している。ベティは主人公の書きものをタイプして出版社へ売り込もうとする。しかしどこにも受け入れられず、酷評を得る。ベティは批評家に復讐して逮捕されてしまう。男は告訴を取り下げさせて、ベティを連れ戻す。やがてリザの恋人で、ピザ屋を経営するエディがやって来る。すぐに打ち解けるベティたち。やがてエディの母が亡くなり、かれの母のピアノ屋にふたりで棲むようになった。
 ある日、ピアノを配送しにいこうとする男にベティがいった。妊娠したという。男は喜ぶ。しかしその夜、男が帰って来ると、めちゃくちゃに裂かれた産着が残され、ベティがいなくなった。かの女を探す男。灯りのついたわが家でベティを見つける。妊娠はまちがいだった。かの女は顔中にピエロのような、めちゃくちゃな化粧をし、髪を無残に切り落としていた。その顔を見たとき、男はトマトソース煮込みのクリネに顔をつけ、顔中に塗りたくった。病んでいくベティ。エディやリザは心配するも、どうすることもできない。やがてベティは幻聴を聴くようになる。男はかの女のためにと、現金強奪をやり遂げる。ベティは子供を誘拐しようとしてしまう。そして夏。ベティは片目をみずからえぐり取ってしまう。男には電話があり、作品の採用を告げられる。でも、ベティはショック状態でもうなにも認識しない。

 

 「ケルアックがいったことを憶えとけ」ぼくはため息まじりにいった。「至宝とは、真の中心とは、目の奥の目なんだ」

 


『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』予告

 


Trailer BETTY BLUE - 37,2 Grad am Morgen (Deutsch)


 原題は「朝、三七度二分」。フィリップ・ジアンは1949年生まれ。冒頭のブローティガンの引用をはじめ、ケルアックが数度引用されている。遅れて来たビートニクといった趣きだろうか。この作品はもちろん映画のほうが有名で、パンフレットには詩人の八坂裕子が寄稿している。わたしはインテグラル版しか見ていないので、かの女のいうように《200%男の映画》という言辞がしっくり来ない。無気力な生をつつましく暮らすしかなかった男を、ベティが作家にまで変身させた愛の映画だとおもっている。たしかにベティを都合よく亡き者にし、それに対して当然といった語りをする主人公は、ある意味では悪漢かも知れない。だが、美しく優しいものだけが愛ではないのだ。残念なことに本書は絶版であり、全訳でもないことを付す。