みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

これは海難救助法ではありません

 

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3/27 モノマネ鳥の正しい使い方


 長篇小説は直してるあいだに220pを超えてしまった。頁数はすなわち予算だ。あとはまた校閲・校正だ。骨が折れる。02/07に完成したはずが、もう二ヶ月ちかく経ってる。noteに最終稿があるので興味あれば読んで欲しい。有料ではあるが。いまはシナリオと漫画について考えてる。賞や投稿の窓口のあるところに賭けようってわけだ。
 調子はまったく良くない。肺炎にかかったり、小銭入れを失くしたり、金を失くしたりだ。どうしようもない。可能性に賭けてやるしかほとんど方法はない。携帯電話もネットも止められてる。支払いをなんとかしようにも仕事にも就けない。おれにはどうにかこうにか、やってみるしかない。小説が完全になるまでほかのことで埋めるしかない。自信なんかどこにもない。わたしはなるべく自己をそのまま描きたいとおもってる。だから執行猶予や生活保護、あるいは剽窃について口をひらく。twitterでは《ばか除け》のためと書いた。けれども実際は、属性とか、分析だと宣い、考えることも、眼のまえの存在がじぶんとおなじ人間だということを忘れてしまったひとびとに問うてるんだ。《まともなことができてから文句をいえ》ときみらはいう。大人しくしてろという。そんな二流国民扱いにどんな意味があって、結果としてどういった現実が待ってるのかも想像だにしないまま。きみらは思考停止なかでしか生きられないのだろう。だからこそ父権的な懲罰思考をふりかざし、時代遅れの家父長主義に棲み、いつまでもきたちの薄汚い父親を無意識に演じつづける。いつまでもだめなやつはだめなままでいろというメッセージ。気に入らない者の、成長や技能の習得の機会を奪う。いやな書き込みながら見なければいいともいわれる。確かに程度問題かも知れない。だが二流以下の新聞記事やテレビのコメンテーターたちだって、まったくどうじようなことをいったりする。基本的な事実を確認もせず、おもいこみだけで書く。ふだんの大企業の役員や皇族に対しての慎重さはどこにいったんだ? わたしは疑問した。でも。どうやら賛成してるらしいんだ。いずれにしても二極化が進み、じぶんたちだって下位に落とされるのは充分考えられる。それでもまだいいつづけるのかな。あらゆる人間に属性なるものを与え、劣化だとか、甘えだとかいいながら、相手の瑕疵を穿りかえす。政治や活動家がなにをやってるのかとおもえば、派手な話題で、じぶんが一席ぶてるかどうか。毎週休日になれば辺野古基地反対の老人たちに出会す。だれもが見飽きたポスターをそこらに並べ、演説する。すでに負けた手法によってふたたび負けるために。またまた与野党一緒に組んでるのかと勘ぐりたくなる。
 きみらがおれにできることはないだろう。以前、bloggerを使ってたとき、検閲ですべて消されてしまった。それまで書いたすべてがなくなった。グーグルには質問も抗議することもできない。素人のボランティアがサポートをしてる。そのうちのひとりが、「アニス」、「ハイヒール」という詩を読んで絡んできた。曰く《生活保護費で酔っ払ってからだをわるくして羨ましいですね》と来た。そして無言電話が掛かって来た。公衆電話からだ。《また電話かけます》といった。わたしはこういった痴れものを排除したい。なぜならかれらとは通じ合えないからだ。おなじ人語を使ってても、絶対にわかり合えないものがいるということだ。かれは後日、twitterをフォローして来た。ブロックした。当然みたいに。《ぼくも保護を受けたいです》と宣ってたが、まさか本気ではないだろう。おれの助言や手順にも答えなかったのだから。他人が云々のまえに、自己分析ができてないのだろう。だから絡んだり、無言電話をする。じぶんがわからないから、他人のこともわからない。対話能力が一文もない。でも本人はおもっているんだろう、じぶんには対話ができる、相手が見えてると。他人を色分けし、分類し、そのうえで攻撃しようとする連中にはそれなりの対応がある。相手から遠ざかって頂くことだ。
 おれもかつてはひとを攻撃してやまなかった。嘲笑的な態度にはめったにでなかったが、ひとの作品を貶め、人格を貶めてきた。けれども作品の過程でじぶんを分析するうちに、そんな行いはマイナスでしかないし、本来のじぶんが望んでたものではないのがわかった。だからわたしはべつの道を採った。ユーモアの力を借りることにした。わるい感情に苛まれそうになったとき、とんでもなくふざけたこと、笑いになるか、他人が呆れるようなことを書いた。おれはいつかコメディを書きたいとおもってる。いまはとにかく古典に触れるしかない。
 このまえ「雨月物語」を手に入れた。まだ読んでない。いまはジョン・クリーズの自伝を読んでる。コメディを書くうえでの助言がちらほら書かれてある。なかなかおもしろい。久しぶりに笑わせてくれた。季節はもはや春になり、桜でさえ五分は咲いてる。そしておれは来月まで退屈な日を過ごさねばならない。けれど他人にからむほど暇でもばかでもない。モノマネ鳥の正しい使い方については次回に延期する。


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4/05 エリク・エリクソンとビニール傘の問題点


 ガラリと変わって、エリク・エリクソンとビニール傘の問題点について書く。とてもむずかしいの話なので今回は書かない。寺山修司吉行淳之介との対談で「詩や小説を書く女はきらいです」と断言してる。たしかにことばを扱うもの同士の婚姻は幸せではないだろう。チャンドラーの短篇「ふたりの作家」を読むといい。かれの初恋はバレーボール部員だったというし、わたしの初恋もまたソフトボール部員だった。活発でアウトドアな女性に惹かれるところはある。しかし結実はしないだろう。絵や写真をやってる女性のほうがたぶんうまくいくのではないだろうかとおもう。ネットでも文藝人とはさんざ会って来たが、だれもかも癖が、我が強すぎる。
 小説のほうは一応脱稿した。洩れたエピソードもあるが、それは出版が決まってから直そう。姉の友人との諍いや、ネットで知り合った女とのあれこれやなんか。おもいだすのはたやすくはない。時間がかかる。わたしはいったいなんのためにこんなことをしてるのか。単に創作で金を得たいというのなら絵や漫画でもやってほうがましだ。きっとそのほうが儲かる。だというのに基本的な鍛錬を避けて、こんなところにきてしまった。文藝は自己のうちがわを抉りつづけなければいけない。それがとてもつらいところだ。なぜこんなところにいるのかを問わずにはいられない。存在の根本を問わずにはいられないのだ。あまりにもやっかいすぎる。そんなことをする人間がふたりでやっていけるのだろうか?
 わたしは出会いをもっと大事にしたい。女性とも出会いたい。ただやはり文藝人と穏やかにやっていく自信はない。言語表現はおのれも他者もきりきざんでしまうからだ。ソフトタッチのエッセイストならよかったのだが、わたしにその才はない。けっきょく同族同士で慰め合おうというのか?──そいつは勘弁だ。おれは自身をよりよい方向へと変えていくしかない。そのためにまず生活を整えることだ。不要なものを棄て、家具をそろえる、身なりを整える。いまは、たったそれぐらいしかできそうにない。ふさわしくなるということのほか、いえることはない。さてそろそろビニール傘を買いにいくとするか。

 さきほどニュースで聞いたのですが、わたしに豚の膵臓脾臓が、肝臓が移植されることになりました。非常に元気になったあげく、100グラム、320円になる見通しです。では今夜の「これは海難救助法ではありません」を終わりとします。おやすみなさい。

  NHK

 

 

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