みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

詩を金に換えるということ、そのほか

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詩を金に換えるということ


 わたしの理想をいえば、文藝投稿サイトにも投げ銭や書き手支援のシステムがあったらいいとおもってる。中国ではすでにあるらしいが、日本に蔓延ってる潔癖症的同調主義がそれを赦さないだろう。こいつを黙殺し、破壊しながらやるしかない。正直、アマチュアたちが撰ぶ月刊優良作品とか、ランキングなんてくだらない。なんの役にも立たない。とにかくじぶんにとっていい作品を書いてる人間を見つけるしかない。主宰人のいいなりになって上位ランカーたちの作品をただただ眺めてるだけではどうにもならない。それにいつまでも詩壇ごっこ、商業誌のまねごとをしてもしかたないだろう。
 わたしにだって他人の作品をいいとおもうときだってある。本すらだしてない作家の作品を買いたいとおもうときがある。だからこそシステムが必要なんだ。生憎わたしにはそれを構築する技術がない。アイデアは夥しくあるけれども、いかんせんできることは限られている。手を貸してくれるひとが欲しいのである。というわけでネットの文藝人の方々には考えてもらいたいのです。
 えー、もちろんのこと批評ごっこもやめてしまったほうがいい。掲示板で延々やるのなら、作品と批評はべつにしたほうがいい。あまりにくだらないやりとりが多すぎる。散文でちゃんと書けてこそ批評には価値が生まれる。だれもへたな文章を、固有のスタイルのない散文なんか読みたがらない。それに作者と評者がべったりくっついているのはなんとも不健全にわたしはおもうのだ。
 まあ、これは半分以上、じぶんの利益を考えてのことである。わたしは月末になると喰うものがなくなるし、生活が荒む。それをどうにか抑えてものを書いてはいるが、もしわたしの作品がダイレクトに売れたら、ファンという存在があるとして、支援してくれたらとおもうわけですな。金は不浄でもなんでもない。だれかに支援してもらうことは乞食でもなんでもない。作品さえまっとうであれば、システムさえきちんとしていればいい。
 あるいはサイトへのカンパがあってもいいだろう。サーバーやシステムの維持し、余ったら投稿者に還元する。それでいいのさ、いいじゃあないの、まったくもってね。そろそろ相互に生き残れるよう考えるべきなんだ。くだらない旗振り合戦なんてやめましょうよ。わたしはそれが虚しくてね、すっかり投稿サイトを見なくなってしまった。
 この件で話したいひとは是非メールください。


方法詩、そのほか


 電話料金を滞納して、そいつが12万を超えてしまった。たとえ払っても電話を復旧させるのはむりだという。自己破産について考えなくちゃならない。文藝はうまくいってる。小説も終え、短歌も終えた、詩も在庫がある。とにかく商業誌に投稿しないかぎり、なにも始まらないといっていい。
 ネットにもう投稿するのはやめた。なんの成果にもならない。金にもならない。いい加減、読者が作者に投げ銭でも送れるシステムでもつくるべきだ。しかし運営人のあたまにあるのはだれをランキングに撰ぶかということぐらいだ。またもうんざりする。だれが上だとか下だとかいう旗振り合戦なんていつまでやってるんだ。そんなものは詩情とも作品の質とも関係はないことになぜ気づこうとしないのか。わたしにはよくわからない。たぶん中毒にでもかかってるんだろう。
 方法詩というジャンルがある。もう10年以上まえに知った。数字の羅列を詩と称してた。頭でっかちな優等生の世界。プログラム言語を詩と称するやつもいた。ばからしい。このまえも「文学極道」じゃあ、ふたりのやつが数字を投稿していた。それらの数列がどういった考えから生成されるのかはわからない。ただかれらは自己弁護、自作改題にうるさかった。そんなにあとづけが必要なものに詩情なんてものがあるのか? そしてかれらに共通するのは、ひとを小馬鹿にした態度だ。方法詩でも、プログラム言語でも、連中と来たら反発をおちょくることしかできない。まさに馬鹿の壁だった。だからといってわたしは詩を数字に置き換えることに反対はしない。
 ただ自作について多弁になればなるほど、かれらは胡散臭い。もしかしたらまともな散文も書けないのかも知れない。哲学用語、数学用語、そして人名、これらを散りばめてなにかを書いた気になってるだけかも知れない。そういった手合をいままで幾人も見てきたんだ。記号化という選択肢についてたしかに魅力を感じるときもある。でもそれはあくまで日常言語と巧く結合されたうえでだ。人間を書けなんていう野次は飛ばすつもりもない。だが少なくともかれらを批判するものをおちょくっているようでは、ただの自己愛の異形化の延長でしか、かれらの表現はあり得ないだろう。
 わたしはあたらしい詩集のために絵を描き、それを加工しながらネット詩人という憐れな人種との訣別、哀悼を示した。なでだれもアクションを起こさないのか。リアクション待ちのだめな芸人風情のように笑えないものを掻き立ててる。基本がなってないんだな、これは。つまるところかれらは「削る」ということも「黙る」ということも知らんだ。古典文学がその歴史のなかでどれだけ削り、黙って、大事なものだけを残してきたことをかれらは知らない。自作改題なんか読みたくもないし、そんなものは書けなくなったやつのすることだよ、きみたち。
 詩のサイトはみな商業誌の真似事未満に落ちてしまった。志もなにもない。わたしにもしできるなら、その力があるのなら、やはり才能を支えたいとおもう。それは金でもいいし、食料でもいい。とにかくわたしがだれかにされて来たことを、もっと積極的にできるところ築きたい。かつて「ココナラ」でやったように詩の講座をやるのもいいが、あれは正直時間の浪費でしかない。ある程度の見込みさえなければただの地獄であるよな。
 ひまつぶしや気晴らし程度の創作なんてわたしは読みたくいない。身を賭すなにものかがなければ藝術にはならない。慰撫行為だ。あと作品をどれだけ売れるかたちに、残るかたちにもっていくかだろう。これを読んでるみなさんは、素直さで詩をい書いて欲しい。もちろん技術を学びながらだ。いい詩を読み、いい映画や音楽、哲学、地質学、地政学、法医学なんでもござれ。その道の古典と名作から学んで欲しいおもうのである。もちろん魂しいを学ぶことは容易じゃない。ひどい目に遭うかも知れない。でもそれもまた翻弄される愉しみとしてやっていくしかないのです。

 というわけできょうの授業はおしまい。早くうちに帰って湯割りのストーンズを呑むといい。じゃあ失敬。