みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

ちんすこうりな「女の子のためのセックス」2017

ちんすこうりな「女の子のためのセックス」2017/草原詩社

 

女の子のためのセックス

女の子のためのセックス

 
青空オナニー

青空オナニー

 
季刊誌東京荒野第七号 (東京荒野)

季刊誌東京荒野第七号 (東京荒野)

 

 
◎ぼくは女の子を知らない。

 

 ひとびとに対するおもいはぼく自身が遠ざかるように離れていってる。環のなかからひたすら零れ落ち、もはやブルーカラーですらなくなったぼくには好きだとか、愛するということは過古で、だれかとつながれるということはSFの世界になってしまった。《海で哲学しないやつがあるか!──波また波》とマヤコフスキーはいったか。かつて不眠症の夜、海までよく歩いた。黝い波のうねり、高速道路、ジョギングの若い男、釣り人、停泊する船。哲学にはあきあきだった。眼に見えるもの、手に触れるものが欲しかった。ぼくは女の子に好かれたことがない。性のめざめが齎したのは戸惑いと初恋と劣等感だけだった。セックスはいちどきり、今年の4月8日。かの女のなまえはいちばん下の妹とおなじだった。ぼくはいけなかった。射精障害だった。なにもかもに晩稲なままぼくだけが暮れていく。 
 Stereolab の"Margerine Eclipse"というアルバムを聴いてる。生憎かれらかの女らには詳しくない。数年まえにメンバーのひとりが自動車事故によって亡くなったこと、映画「トマトケチャップ皇帝」を借名した作品があること、テレビショー"Whisky a go go"での"Franch disco"がとてもいいということくらい。きょうは喰うものがない。金はあした入る。きょうは炊きだしで昼を済ませただけだ。室は寒い。空調のリモコンが毀れたままと来る。本来なら旅の記録を書く予定だった。けれども現像にだしたフィルムがだめになったためにそれも延期。フィルムはいまべつの写真屋で修復中である。旅のあいだずっと鞄に入れてた詩集についてきょうは書く。
 かの女との接点はない。ぼくはかの女のことを知らなかった。かの女はどっかの投稿サイトでこちらの詩を読んだらしい。以前にSNSでぼくはかの女にからみ酒をした。なにをいったかはおもいだしたくもない。世に拗ね、ひとびとに拗ねてた。そのあとぼくのニュースレターを読んだらしく、「詩集を買いたい」と申し出てくれた。こちらとしては躊躇った。過古の詩集の再編輯ものだったし、なにしろ内容が野卑で下品だから。女性に読ませてよいものではないという考えだった。それでもけっきょく詩集を送り、購買特典として水彩画を描いた。かの女からの依頼で肖像画を。──残念ながらかの女からの要望でここに絵を掲載できないけど。
 入手して読むまえはハウツー本のパロディみたいな詩集なのかなとおもった。もちろんこれは題名からのただの連想。一読しておもったのはひとりの女の子の、女の子であることの傷みや辛さだった。たとえがわるいかも知れない、いちばん連想したのはフォーク・シンガーの田辺マモルだ。かれの痛々しい恋や性愛の唄をひっくり返したようにおもった。もちろん、これはあまりに勝手過ぎて不愉快な連想にちがいない。

 
プレイボーイのうた 田辺マモル

 

田辺マモル いっしょに寝たけど何もしなかったPV

 

ライフサイクル 田辺マモル

 

◎愛によって引き離されるひとびと

 

 詩のなにをおもしろいとするかによってこの作品の読みは変わるだろう。作品がその人物や人生を裏書きするものでないとぼくはおもってるから、この詩集をそのまま性愛の告白とは読めない。また売買春の肯定だともおもわない。かの女は詩のなかで性愛、性産業、他者との距離、他者との理解、求めること、求められること、あるいは肉体そのものについての執拗に描いてる。しかし語りに熱はなく、どこまでも冷めてる。静かで、あまり動きを感じさせない。時折見せるユーモアがいい。収録作では「夢」が好きだ。それでも何度か詩を読み、何度かメールを交わしたあとにおもったのは「愛によって引き離される」ということだった。肉体が結びついてもそこに愛があるとは限らないし、愛があっても肉体が必ず結びつくわけではない。じぶんに愛を教えてくれたひとが、じぶんを愛してくれるわけではない。かつてぼくは「ラヴ・ソング」という詩を書いた。若くて、愚かだった。

 

 ラヴ・ソング


  おもうにどの女も売春宿からやってきたんだ
  けれどもかの女たちに金を払っても
  触れさせてもくれない
  かつて熱をあげた少女たち
  いまは世帯持ちで 
  男たちから給料を吸いあげて暮らす
  どっか東部の町で平凡さを謳歌しながら
  ある女は亭主をおっぽりだして同級生だった男らと遊ぶ
  けれどそのなかにおれはいない
  遊ぶ相手なんかいやしない
  だれもない世界の、
  その待合室に坐ってひとり遊びに興じるだけ
  おれはおもいだしてる
  かつて熱をあげた少女たち
  好きだということで迫害された過古
  自身がすっかり手に負えない代物になった挙げ句
  愛し合おうとおれはいう
  愛し合おう、
  やがて獣性のなかへと
  引き込まれてしまおう、ってさ

 

 以前にネット記事で現役ホステス嬢のひとが「女性が必要としてるのは助言ではなく共感」といってた。もしぼくが自身の下心に抵抗がなかったら、この詩集を称賛しただろうし、共感の態度を演じることもできただろう。でも悲しいことにそれができないからぼくはもの書き、女性にきらわる。たぶんぼくはだれにも寄り添えはしないし、共感もしないだろう。よっぽどの狂気や逸脱がそこになければ熱くなれない。みながみな、少しづつ互いを傷つけながら生きてるように見える。ほんの少しのきっかけで殺し合いでもするような憎しみを無自覚に生きてるみたいに。それを献身と誤訳したり、慈愛と誤読したり、やさしさとか、おもいやりとかいいながら、みんなくたばっちまえだ。──でもそう吐き棄てながらもいまだこの世界にしがみついてる。

 だれもが愛を享受できるわけない。だれもが性愛の機会を得られるわけじゃない。結ばれるのはごくごくわずかだろうし、それでいて幸せなのはもっとわずかだ。やもめの、少数派の男女からみれば、ちんすこうりなの表現は甘えでしかない。いっそ性愛や肉体を抜きして表現してみればいい。作品としても編輯としてもおそまつだ。編輯だけ──ならおれのほうがもっと巧いだろう。かの女の自己卑下と他者への目線によって癒やさる詩人たちがいてもぼくは否定しない。かれらかの女らがみずからの幸福に盲目なまま消え去ってくれるのを待つしかない。坂口安吾が「夜長姫」にいわせたみたいに《好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ》というわけなんだ。だからおれはまたしてひとりでひとりの鱈を切り刻む。さらば、さらばよ。

 ああ、幸福の鐘の音が聴える。

 

   *

 

 追記:"ちんすこう"などというふざけたなまえをいったいかの女はいつまで掲げるつもりなのか。オナニーやらセックスやら、そんなものが人生や表現するということの、根幹であり心根であるとするようなかの女の方法には疑問しかない。性愛など枝葉に過ぎない。オナニーもセックスもいくらやろうが、どうやろうがゼロでしかない。そしてそのゼロが熱いか、冷たいかだけのちがいしかないのである。かの女は執拗な心理的脆さを露呈している。つまり、絶対的な愛あり、その愛は必ず性行為に直結するという思考である。だが実際、愛が貧弱であっても関係の結果が劇的であることもあり、愛が劇的であっても結ばれずに終わることもある。そしてさらに愛が不在のまま結ばれてしまうことだって充分にあるのである。かの女がすべきことはオナニーでもセックスでもない。まずは詩の古典を通読することである。最低限、近代詩の要である、啄木、藤村、賢治、朔太郎、光太郎くらいはいやでも読んだほうがいいだろう。そして構成と編輯の基礎を磨くことである。さもなくばスペルマのなかで溺れてどろどろになるまで融けてしまうがいいぜ!

 

ドロドロに溶けるまで愛し合いたいんだよ──King Brothers"Party″

 

 性的パラドクスをいかに超越するかが要点であろう。

 


Joy Division - Love Will Tear Us Apart [OFFICIAL MUSIC VIDEO]