みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

旅路は美しく、旅人は善良だというのに

 

 


    ○


 カウンター席に座って、横の止まり木を見る。小さな紙切れが名札のように貼ってあった。たしか、こんなふうなことが書かれてあったとおもう。――ふたりの少年がやってきて、おれのことで妹をつかまえていった。だからでていく。すぐに戻る。酒は置いておいてくれ――おそらく戻ってはこないだろうし、連れ戻すこともあるまい。かれがどういう気持ちか、わかりたくないまま考えてから、はじめの一杯を撰ぶ。まわりを見渡してみた。かれを待っていそうな人間がひとりもいない。立ち去っていったのだ。酒だってもうない。ひとたび哀れにおもい、かれを偲ぶためにも酒が必要だった。ついてきた女の肩を肩でこづく。察しがいいらしく、顔をあげて応えてくれた。
   なにが呑みたいの?
 少し考えて、あまりきざなまねはよすことにした。芋焼酎だ、湯割りの。かの女は年寄りくさいとつぶやき、そっぽをむいてしまった。しかたない、金はかの女が払うのだから、すきにいわせておけばいい。
 ボックスに座った老婦人がしゃべくるのをやってえらく高い声で耳に来てた。――待ってるのよ、あたしは。かれの来るのを。でもきょうだって来なかったわ! なんていうひとなの? 近所の子供を使いにしたりして!待ちながらいっぽんの木にされたわ。だからっていくとこもないのよ、あそこじゃあ。――しかも金持ちの男が来てね、あそこで話しかけんのよ。おれの眼鏡はどこ、だって。たがいにいくところがないのよ。みょうちきりんな召使いまで連れて、どこへいくのってのかしらねえ。しかもめくら。
 見たところ、かの女の相手はそれ自身のようだった。
   なに見てるの?
  あの婦人、ひとりで話してる。
   めずらしくないよ。
  よく見たの?
   あの街じゃあ、よく。
  まあ、おもしろいこっちゃないね。
  おれだって変なのにからまれたし。
   へんなのはそっちじゃあ?
 ある本でみたことがある。ゆうらく町ってとこでは六〇年代、首に札をぶらさげた老人どもがけっこうなかずでいたらしい。そこには「わたしに話しかけてください」とあった。ゆくところを逸してるのはあぶれものだけではないということだ。
   きみはこれからどうするの?
    どうにも。
   楽器なんて拾ってくればいいんだ、音色なんてあとからついてくるよ。
    あんたには音楽ってわからないでしょ。
    それだけ。
   ああそうさ。作曲法も和音進行でけつまづいておわり。
    単音ばっかでしかできないんだ?
   安いもんのソフトでいくつか書きあげただけさ。
    そういってお情けもらいたいんだね。
 ぼくは笑った。でなければやっていけない。かの女は笑わない。酒場でふたりともが坐りながら立ちつくしてる。旅なんざ、ろくでもなかった。
 長距離バスの夜更けはたちがわるい。室内灯が消えるころを過ぎても、いっこうに眠れなかった。小壜を呑み、脚を展ばそうとする。できない。あたまをうつむけるか、うえにするかでしつこく験す。都市での失態が夢のようにあらわれる。そんなときはいつも主観ではなく、どこかべつの方向から撮影された映像にかわる。じぶんが場面の一部分にすぎず、だれかがつくった、どへたな画面におもえてくる。
 ぼくがウィスキーの壜を握ってたら、隣の娘が肩を叩いた。窓からふりむいて、その顔をみる。化粧臭く、香水臭い。眼のまわりを隈取のような、墨絵のような、ほどこしが濃かった。舞台からそのまんま降りてきたような生身の女。かの女は壜を指した。
    呑みますか?
 黙ったまんまうなづく。唖しなのかも知れない。ふたたび窓にもどって、壜が帰ってくるのをまった。
     もっともってないの?
 しばらくたってから声があった。壜はからっぽだ。
    なんだってそんなものを?
     さいあくだから。
    さいやく、なにが?
     いいから、はやくだして。
 ちいさく幼い声にしたがっておしまいのいっぽんをやった。いやいやなのを見せつけてながら、かの女の手に落とした。
     ありがとう。
     それはどうも。
 この地点でまだ、ひとつめの休息所からでてしばらくいったところで、午前六時まで五時間はある。酒の臭いがそろそろ車内に充ちはじめてた。
     ずいぶん呑むんだね。
    なにもいわないでかの女は呑みつづけ、おれのぶんを失くそうとしてた。
     もういいだろう、おれのがない。
      黙ってて。
     勝手にしやがれ
      してあげる。だから黙って。
 箍がはずれたようだ。かの女は哂いだした。おれは壜をひったくり、その半分残ったのを干した。
      のんだくれ!
 笑いながらいわれた。ぬたくったマスカラのせいで、そのつらはあちらがわの笑みに見えた。地獄とか墓穴とか屠場とか夜の長距離バスみたいな笑みだ。
    知ってるよ、それぐらいのは。
     呑んで喪ってきたばかりだから?
     喪うのはわたしのほうがうわて。
 それからすぐに膝を寄せあい、告白しあった。ばかもの同士でだ。
    酔ってないでよく聞いててね?
 どちらも脱出にとちって帰るところだった。ろくでもないことだ。ぼくは飯場にいた。おなじ年の、とても気さくなやつに逢った。かれは組長にいわれて流れてきたらしい。やくざものだ。ふたりしてビールを呑み、現場へいった。印刷会社のビルヂングにはまだ壁もない。臭いはじめた夏が虻そのものだった。
 ある夜、いい仕事があるとかれがいう。フロント企業のひとつで二十万はかたい。まったくのぺてんで、あわや、けつを奪われそうになった。ぼくは文なしだから、母にねだって運賃をださせた。かの女といえば音楽やりたさにでていくも知りあった、とてもやさしいやろうにまきあげられ、やられてしまってた。――どんなつらをしてこんな話しが聴ける?どうだっていい。そうだ、どうだってかまわない。
   それにしても眠れないね。
 駅に着いたとき、足もけつもうごかせなかった。窓枠に手をかませ、右足にちからを入れる。重心はそこだ。もちあげるようなかたちでまごついていたら、かの女が手を貸してくれた。
  すまんな。
   お礼にいっぽん奢ってよ。
 女の子に奢るなんてとってもきざだ。少なくとも二十一にもなる童貞のおれには。裸足で歩く男がコンビニエンス・ストアのまえで立ちどまる。森番にみせたそいつをよけ、ふたりは酒を撰んだ。樵はではらってていなかった。女装のさなかかだろうか?
 高架下のルンペンたちにまじって、ポケット壜をまわし呑む。みんな敷物を片づけ始めてた。それでも、まだ寝てるのもいる。いっぽんやって、それでまたいっぽん。帰りの電車賃がなくなった。あとはほうぼうでレコードや本を眺めた。たがいの好みをただいいあって過ごした。それがいいとか悪いとかはなしに、静かに。そのあいま、側溝を走るものをみた。どぶねずみだ。おたがい、はじめてだった。走る姿だけはうつくしい。なにもいわなかった。うんざりして、もうなにもいうまいだ。酒場の場面にそろそろ戻ろうか。
 カウンターにケンタッキー・ウィスキーがきた。楽しい会話をねってみて、なにも浮かばないことに気づく。おれってやつはまったく、話すことに不向きだとおもった。ことばを憶えたって話せなかったころの空きを埋められはしない。こういったとき、教室を思いだす。どこだっていい。ただ教室であればおなじだ。さむざむしい。むなしい建築、内装の賜もの。そこへいくといつもぞっとしたものだ。全身のどこを問わないで狙われてるとおもえてくる。グラスをひと息にやる。そのとき老人が入ってきた。まっすぐに紙切れのうえに坐る。ほかに空いてるのはいくらもあったのにだ。すでに酒がはいってる。
   なあ、にいちゃん。
   このまえ、S区で火事があったろ?
   おれのどやのすぐとなりだった。
   買いものから帰ってくると、
   廊下や階段を犬どもや猫どもが走ってるんだよ。
   だれかが隠れて飼っていたんだな。
   ものすごい勢いで出口に向かっていった。
   どこもかしこも煙しかなくて、そのなかを室に向かったんだ。
   おれのものが無事か、あせったね。
   おれの室には白黒のまんまのテレビがある。
   莨の脂ですさまじいけどな。
   おれはスイッチをつけて窓をあけた。そのむこうに
   でっかい、おまんこみたいな炎がうずまいてたっけ。
 かれの眼にある、黒い染みみたいなものにぼくは応える。
     それはきれいでしょうね。
 無視して老人は指をつきだすと、ここでクイズがあるといった。
     さて、おれがなにをテレビで観てると思う?
    皇室特集?
     正解だ、おもしろいだろ?
    なにがです?
     白黒テレビをいまだにもってるってところがだ!
 かれはいかにおもしろいかを早口でまくし立て始めた。それからあたらしい売春宿、昔からある売春宿、ひとの多すぎる老人憩いの家などについて語った。しまいにはぼくのことを警官かとうたぐる。かれが沈黙をやぶりつづけることだけに感謝し、次の一杯を思う。老人は顔を手で覆った。
    おれはおもしろいのにだれもわかってくれないんだ。
     忘れていただけですよ。
    いいや、ほんとうはおもしろくないんだ。それにだれも話かけてこない。
     きっといそがしいだけですよ。
    ふざけるんじゃない!
   立ち上がってかれは、
   おれのまわりで職に就いてるやつなんかいないよ!
 あたりはばからぬ声でいった。店員には透明人間らしい。そのまま、からっぽのテーブル席へ移動するのにだれも呼びとめもしない。おれだって働いてなんかいない。ぼくは連れあいにいった、たしかにあのひと、つまらないね。
   かの女はいつのまにか注文したか、ビールを流し込み、
      もうでる、わたし、がまんできない。


   ○


 呑み屋通りを抜けて大きな本屋のまえへでた。ひと待ち顔の群れむれがやかましい。円柱のでっかい広告。派手なべべを着た女に表情なしでプロバイダを奨められた。その胸に手を当ててみたい。いつか、あれのねたに使おう。またふたりしてポケット壜をまわした。七百円以上もした。黒いやつ。ぼくはときおり、かの女の顔を盗み見ては、化粧を落とせといいたくなった。でもいまはこいつの金で呑んでいるんだ。下手なことはいえない。女はみんな意地が悪くて、悪意にはそこというものがないんだ。それを発揮されれば手に負えない。黙って離れるだけだ。つき合ったことはない。だがほかの場面でよく思い知らされてるつもりだ。ぼくはチェイサーにビールを嘗めながら、そういう場面を思いだそうとしてた。
   ああいう店にはよくいく?
  まえはいったよ。
   あんなところのどこが楽しくて?
  べつに楽しくなんかないな。
   酒は高くて量は少ない、
   店主は無愛想だし。
   知ってるひとが、
   なんとかいうやつの朗読をやってて、
   酒を奢ってくれてたから。
    そのなんとかいうやつをそっちは読まなかったの?
   たまには読んだ、うけ狙いで。
   でも、おれは舌がよくまわらないから、
   いろんなところでつっかえて、みんなに笑われて、
   そいつが酒になった。
   ズブロッカってやつが好きだったな。
   透明で、壜に草の茎が漬かってる。ぽーらんどの原産らしい。
    ぽーとあいらんどってあの港の?
   いいや、ソ連の近くにある国らしいけど。
   ばかみたい。
  ばかそのものさ。
 ぼさっと突っ立ったまま呑みつづけ、そのまま21時を過ぎた。いろんな目玉がふたりをつけまわした。かの女をからかうものもいた。なにもできないことにただあきれてた、みずからへ。
   うせやがれ!
   このくそちんこ!
   いいかげんにしないとその口をひん曲げてやる!
 活躍したのはかの女のほうだ。しばらくして数駅先の暗い町で降りた。そこはかの女の地元であり、こちらがけつわって逃げた就職の、研修者寮のあることころだった。そこで二週間いた。せまい室は相室。背の高い、丸眼鏡の男が一緒だった。
 その日の技能講習が終われば、そこらへんを遅くまで呑み歩いた。ただ金だけが減っていき、気がつくというぐあいでバスに乗っていた。ほんの1ト月まえのことだ。もしかしたらまだ棄てていった荷が残っているかも知れない。
 ふたりは歩きながら入れそうな店を物色した。そこらにはコンビニエンス・ストアも、酒の自動販売機もなかった。暗い栗褐色の通りをゆっくりと歩き、なるべくなかの薄暗い、ふたりのひどく酔ったさまや、かの女の幼さの通らないところを探す。
 どの店にもそれぞれ見覚えがあった。つまんないところもあったけど、親切でいいひとたちにもであった。あるところでは就職祝いに奢ってくれ、つぎの日にまた会いたいといってくれた会社員のおっさんもいた。あいにくその夜には旅路に就いていたが。明るい店主の夫婦、それにかれらのだした焼きそば。
 行きのがら空きの車輌でおもったのは、あたらしい空想のものがたりだった。おんぼろでも寛げるアパートメントと、なにかわからないが、なにかを産みだすおれ。生まれてこのかた、あたまのなかの、もうひとつの世界にぼくはおぼれて来た。その穴ぼこのなかで傷みを忘れ、充ち足りてきたから、もの憶えの悪さも、からだの弱さも、みてくれのまずさも、つながりのなさも、咽もとを過ぎるのがあまりにも早すぎた。そうとも、おれはもっと苦しむべきだった。
   女がうえを指差してる。
   あれにしよう!
   あそこがいい!
   ちょっと!
   どこ見てるの!
 白にちがいはないけれど、かなり汚れたビルヂングの上階に看板が掛かっていた。カラオケ居酒屋。まちがいない。いったことのあるところだった。その名もごくつぶし。ひまつぶしだった気もする。おれは断ろうと思ったが、かの女のはじめて見る、明るい顔のせいで、したがうままにしていた。四階まで螺旋階段をのぼる。扉をあける。赤黒い照明だか、内装のなかに半円状のカウンタ―と、ソファ席、カラオケ用のひくい壇がぼんやり浮かんだ。まえに来たときとおんなじで客はおらず、中年過ぎの太った女主人が止まり木、若いバーテンダー姿の女が酒のまえに立っていた。ちがっていたのは若い女で、前回にいた、髪の短い、おれ好みの美人ではなく、目鼻立ちのはっきりしない青白いのがいただけだ。残念なのか、ありがたいのか。
 女主人はひくいしゃがれ声で挨拶をし、ふたりをカウンターに手招きした。どちらともウィスキーの炭酸水割り。もうあまり呑めそうになかった。そいつを2度おかわりしてから、かの女は歌いだすといった。1曲が百円だ。おれはとめなかった。かの女の歌ったのが、なんという曲なのかわからない。けれどどこか、カントリー調だった気がする。歌はうまかった。ただ酔ってるせいか、舌足らずに響いた。ぼくはといえば、ひとまえで歌ったことなどなかった。
 以前きたとき、古いジャズ歌謡ではじめて唄った。「女を忘れろ」というものだった。曲間のドラム・ソロが気に入っていた。女主人はそいつを聴いて音痴だけどうまいといった。この夜、どうやらぼくのことを憶えてないらしかった。わが恋人もどきはさらにもうひとつやって終わった。みんなで拍手を送ってやり、ぼくは口笛だって鳴らしてみせた。上機嫌で戻ったかの女に、こちらがまだ口をつけていない酒を丁重にゆずる。そいつはいっきに呑み干された。
    そっちも歌ってよ。
   こんなひくくて鼻にかかる妙な声で?
    いいと思うからやってよ。
   じゃあ、やるってやるよ。
 ぼくはあまり考えもせずに席を空けた。酔っぱらっていて、もうなにもかもが温かかった。それだからおなじ歌を、まえとおなじように撰んでいた。これでこちらのことが思いださされるだろう。ダイス、転がせ。ドラムを叩け、就職と自立について語った口ぶりがいかにまがいものだったか、はっきりするだろう。やけにしんみりする夜だ。間奏のドラム・ソロにのって、からだをゆすり、いかにも悲劇的なつらをしながら歌っていた。忘れろ、忘れろ、あの娘なんかはよ。――みんな表情がなかった。おれは締めのソロが終わるまえに席にかけ、からっぽの容器をつまみあげた。できるだけ粋に見えるように。もう一杯だけ。女主人がこちらを見据えた。
   音痴だけどうまいわね。
  それはどうも。
   あんな古い曲、どこで知ったの?
  映画ですよ。
   そんな映画、いま観られる?
  衛星でやってます。
 でまかせを答えてばれるのを待った。あちらさんはそれ以上訊かず、ちがうところに水を向けはじめた。――ところでおふたりさんはいくつなの? おれはどうってこともなかったが、かの女はちがった。大きいその眼をびくつかせてしまった。まったく、なにをいまさらおびえてる?
 でも、女主人だって悪党じゃなかった。曰く、
     安心して、
     黙っててあげる。
     なにもうらなんてないの。
     あたしの友達がやってるホテルがあるのよ。
     安くてきれいなのに近頃、
     客足がにぶいのよ。
     今夜だけでも泊まってやって!
     ねえ!


    ○


 安宿の主人も太った女だった。もしかしたら遠い親類かなにかかも知れない。これで3人目が、エクレアといっしょに現れないことをわずかながら祈る。ほんの連想にすぎないのに、縁の薄い文庫本があたまのなかにあった。たしかイギリスの短篇だ。おれの恋人がどやよりも安い、ただ同然の小銭を払う。そしておれとおなじようにおれたちを車で送ってくれた女主人にふしぎそうなまなざしをむけていた。
 どこかになにかが隠れていたっていい、そんなところだった。もとは近代的だっただろう、内装もひびと汚れと埃とかびで、そこらじゅうがやられていた。壁は黄色く、床には緑の敷物。まあ、小さくて目立たないところにある、この四階建ての昭和モダンはなかなか興をそそった。おれはそういうところが好きだった。どうせならジャケットと、中折帽子をかむって来ればよかった。そんなもの、もってない。
 提供されたのは、四階の小さな一室だった。かわいげのある狭さだ。ベッドカバーは深紅。色っぽいかもしれないが、いつ洗ったものなのか見当もつかない。寝台のわきに小さな鏡台と照明があった。テレビジョン、テーブルはなし。シャワーと便所のみ。かの女はまっさきにからだを洗いにいく。どういうわけか、この階だけ窓硝子がない。かわりに緑やら赤の文字が入った合板が貼られていた。いや、打ち付けられていたんだ。おれは文字を見た。製造元のなまえだろう。かすれていて、どう読んでいいものかはわからなかった。でも、これとおなじものを実家で見ていたっけ。ねじの入れ方が執拗だ。
 父は日曜大工に執り憑かれていた。もともと平屋で買った中古のわが家だったが、かれはそいつを二十年以上、改築に費やしていて、おそらくそれに終わりはないだろう。いつもどこかをつくり、どこかつくったところを毀していた。通りがかったひとびとがおかしな眼で眺めた。少なくとも幼いころはかれについて。なんでもできる、すごい父だとおもっていたし、敬ってもいた。
 しかし、そうしたことにつき合わされつづけるにしたがって、けっきょくは狂気を学ぶために準備された、はじめての教材であると覚った。家すなわち、それは父だった。そして家にある以上、そこにあるものはかれの所有物だった。かれは毎日、ひとり息子に手伝わせているのはほんの少しの、どうでもいい箇所に過ぎないと声を荒らげた。日曜日の朝からひねもす、罵り声と金鎚の柄を味わい、御奉仕させられながら、しかしかれの息子は思ったものだ。マスはひとりでかくものだと。
 かの女はもう寝台になだれていた。スカートがもう少しでめくりあがる。酔いの醒めはじめたあたまで、そのさまをぼくは描いた。早いことろ、そうなってしまえよ、な。なにかはじまる予感こそしたが、なにをしたものだろうか、まごついてもいた。なるたけ音を発てないよう、気配りながら歩み寄り、まだ十七の女の子の横に坐った。化粧は落とされていて、はじめてみる素顔は素朴すぎたが、それがよかった。きれいで、お高くとまった感じがない。薄目をあけながら荒い息をしている。
   水をちょうだい、
   炭酸水か、天然水で。
 かの女の声がした。その通りだ。ぼくも欲しかった。さっそく階下へ急ぎ、フロントに声をかけた。まぼろしの三人目はいなかった。どうやらまだらしい。安心した。エクレアを突っ込まれるのはぼくかも知れなかったけど。――ぼくはかの女の財布から金を払い、ふたつのペットボトル、炭酸と天然、自分用にジンの青い小壜を受け取った。急に怖くなったのだ、なにかが。もどってきたら音楽が聞こえて来た。携帯ラジオをかけていた。半透明の赤い色。ストラップの紐があって、首から掛けられるようになってる。そんなもの、はじめてみた。
 かつて好きだった三人組のバンドが、いまは四人になって、そのときにぼくには好きになれそうにない曲をやっていた。どうでもいいことだ。勝手に期待してうらぎられた気分になるのはまちがいだ。かの女はその曲が好きそうだった。鼻歌。おれはいつかは好きになれるかも知れない。
ぼんやり受け止めながらボトルを二本、目のまえにかざした。どっちがいい?炭酸がいい。
 蓋をあけてから手渡すと、ありがとうと小声でいってから、ほとんどいっきに呑みだした。小さなボトルはからになった。かの女はもういっぽん、天然水も口につけた。こっちは少しづつだ。ぼくはべつの曲がかかるのを待ちながらジンをあけた。
  なによ、それ?
 もらったのさ。
  うそつき、勝手に買ったくせに。いつまで呑むの?
 だいじょうぶ、これで終わるよ。
   いつまでもそっちの面倒見切れないから。
 おれたちは黙ってラジオを聴いた。しばらくしてかの女がこっちをみた。
   少しだけ呑ませて。
 おれは直に呑んだやつをそのまま渡した。いぢわるのつもりだったが、向こうにはどうでもいいことだった。肩透かしを喰らってるはたで、壜を電燈にかざし、その輝きを眺め回していた。おれは訊いた。
   きれな壜だろ?
    うん、ほんとに。
   それ呑むと、青い小便がでるんだぜ。
    きたない!


    ○


 ほんとうの故郷はここじゃない。かの女はラジオに合わせてつぶやく。それがかの女の歌声だ。こちらはなんにも返さず、残り酒をちびりちびりだ。もうなにもわからない。酔っていない。でも酔ってた。あたまが冷静さを装ってる。いちばんたちがわるい。気持ちがいいのか、悪いのかの決まりもつかなかった。シャワー室から盥をもってきて寝台の脇におく。手ぬぐいを枕のうえにかけておいた。
   どうしたの?
  げろするかも知れないだろ。
   やめてよね!
   被害に遭うのはこっちなんだから!
  そっちだってそうとう呑んでるよ。
  あぶねえのはおたがいさまだろ?
   あんたほど呑んでないって!
   ばかじゃないの!
   脳みそが融けてるんだって!
  うるせえな、くそったれ!
  くそがきは黙りやがれ。顎をひんまげてやろうか?
    けんかもできなきゃ、働けないやつがなにいってもおんなじ!
  いいから黙ってろよ。
  せっかくかわいい顔してんだ。もったいないじゃないか。
  おれと愛し合おうぜ。
    やりにやる、
    やってやってやりまくる!
    おれはめんくいなんだよ。
    いつもいい女に惚れてきて、
    いつもきらわれてきた。
    でなけりゃ、知られることもねえとくる。
    あんたとなら何回だって、――
 長々とせりふをいった。しょっちゅうつっかえて、なにをいってるのかもわからないとこが多かった。恥ずかしいくらいに訛ってた。大きらいな近畿訛りだ。かの女はしばらく表情もなしにおれを見あげてた。こっちがいい終わるのを待って仕返しにでる。そいつはこんなかんじだったとおもう。
     ふざけんなよ、醜男。
     あんたは甘ったれてるだけ!
     じぶんを掴まえてくれるのを、
     バスみたいにずっと待って、来ないまんま死ねばいい。
     あんたって死体が歩いてるみたい。
     わたしとちがって夢も目標もないし、だれかに出会おうって気力もない。
     わたしは失敗はしたけど、学ぶことはできる。あんたとちがって!
     くだらないものが脚のあいだについってくからって偉そうに。
     男はどうしてそうなの?
     じぶんだけは賢いなんて、じぶんだけはばかだなんて、
     どうしてたやすく思う!
 ラジオが飛ぶ。こちらに飛んでくる。あたらなかった。あたったのは合板で、外装を少しちらして床に転げた。ノイズもまた音楽のひとつだ。それを聞きながら寝台に坐る。床で寝ろとはいわれなかった。しかしそのおもざしは反対だ。
     きみのいうとおりだ。ぜんぶ。
     おれはじぶんがいちばん賢くてばかな死体だとおもってるよ。
     展望もなんもない。
     ただただ好きなものがあっただけだ。
     それをまねしてばかげたことをやっただけ。
     わらえない。
 わたしは、とかの女いいかかけた。いいかけてやめる。わたしは、――ほんとうにすきだったか、わかんない。
     音楽のこと?
      でもあなたはそれが好きなんでしょ、ほんとに。
     しがみついてるだけかもな。
      お幸せ。
     それはどうも。
      その、なんとかっていうの、楽しかったの?
     いや、ただひとに遭いたかった、誉められたかった、話したかった。
     でも話すことなんかなにもなかった。
     ぜんぜん見つかんない。
     言葉を憶えるのが遅すぎてしまった。
      喋る自信ない?
     どもりがある。
      ぜんぜんないって。酔ってるからでしょ。
     いまでもつっかえるんだよ。あっ、とか、えっ、とか。
     そうしてからじゃないと反応できないよ。
      そういえばそうだね。でもひとまえじゃ、なにか読んだんでしょ?
     あっ、いろいろとね。
      そのころから呑んだくれ?
     幼いころからだよ。母方のじいさんがよくビールの泡を呑ませてくれて、
     酒はいつもあこがれだった。
      しょうのないこと。
     わかってる。けどわかってない。
      なにそれ?
     格言。おれの。
      ちっともおおしろくない。そんなんでいったい、なにが書けんの?
     もうなにも書かない。
      じゃあ、どーすんの?
     倉庫作業かな。
      その身体で?ちからいるでしょ?
     出庫係でもしようかな。品物のかるいところでね。
    鼻で笑うというのをおやじのほかにもみた。くだらない自己暴露をやりたくていつもおれはうずうずしてる。いま酔ってからよけいにそれはでてきた。
      わたしは死ぬか、隠れて暮らしたい。でもそのまえに――
    不運な女はきらいだ。うつくしくない。耐え忍ぶ女もきらいだ。うつくしくない。でもやり返そうとする女はよかった。これで運さえ、ついてくれば文句はない。でもそれはどこにある?
    そういえば、だれかがいってたよ。
    「秋風や人さし指はだれの墓」って。
    おれはどういうことだかわからなかったけど、
    それってすんごくさみしいことだよな、
    だれもが手に墓つけながら歩いたり、
    笑ったり、もの喰ったり、くそしたり、二段階右折したり、
    列にならばされたり、鉄条綱のむこうにいたり、
    病院に入ったり、ベストセラーの本を読んだり、
    面接官に呼ばれたり、検察官を接待したり、
    呼びだし喰らったり、出荷伝票とにらめっこしたり、
    しょんべんしたり、帰るところがあれば帰って、なけりゃ陸をひき、
     好きなやつにきらわれ、好きでもないやつと笑いあい、
     歌を唄ったり、働いたりするんだからな。
      それでも、
      いきつくところがいっつもそこにあって、
      秋のかぜが吹いてるなんてきれい
      すんごくきれいにおもう。
     きれいなのはきみのほうだよ、なんだってあんな化粧してたんだ?
      すべてが怖かったから。
      だれにも近づいてほしくなかったの。
      ナンパとかされるんだろう。
      あなたはできないでしょう。
     じゃあ、おれに話しかけてきたのは?
      いったら悪いけど、そっちがあまりにもぶさいくで、
      暗くて冷たい顔してるから急にからかってみたかっただけ。
     それで?
      それでって?
     うまくいったの?


    ○


 午前3時をまわっても、ふたりは起きていた。横たわっているだけで、ラジオに耳を傾けたり、とぎれとぎれな会話をしてなにもせずにいた。どっちかで手を握るか、頬を撫でてみるか、何通りもの、着想があったが、どれもやれなかった。やっぱりおれは童貞だった。天井の灯りを消して、スタンドに切り替える。靴下だけを脱いで床に抛る。かの女はじっと眼をあけて、ラジオのほうを見ていた。ひとりでやるようにシャツとズボンを脱ぎ捨てる力がだせなかった。そとの路地から自動車の音が聞えて来る。やがてそれは真下で停まった。
   ところで、女の子とつきあったことあんの?
  あるわけないだろが。
   好きになったときって、もてないのはどうしてんの?
  想像力のないやつだな。
     悪かったね。で、どうすんの?
    好きなのがばれてきらわれるのを待つだけさ。
     どんなふうにきらわれんの?
    黴菌扱いされたり、ものを盗られたりだよ。小学生のころだった。
     仕返ししないの?
    そんなこと、どうやってできるんだよ、
    相手は女、わるいのはぜったいに男さ。
     みじめだね。
    きみはどうなんだ?だました男に復讐しないのかよ?
     いつか、ぜったいにしてやるわ。あんたとちがって叩き潰してやる。
    つよい女だな。ますますそそってくる。
     気持ちわるい。
     死ねばいいのに。
    ああ、殺してくれよな。
     いや!
     じぶんでやって!
 かの女が眠りに就いてから、その顔をコンパクト・カメラに収めた。それからぼくも眠った。酒はかえって眠れなくさせた。
 やがてかの女の吐く声が聞え、合板のすきまから入る光りが眼をあけさせた。まだ六時だ。かぜが路地裏から吹きあがって塵をいっしょに室に入れてる。だいぶ酔ってから、盥をあらかじめ、そばにしてて助かった。3度吐き、指を汚す。まだ残ってる炭酸水でしたたかにうがいをし、もう一度眠った。3時間経ってた。
 また酔いが残ってた。ふたたび水をあおり、どうにかしようとする。どうにもならない。かの女はいなくなってた。窓辺の床にラジオが転がってる。スピーカーの桟みたいなところが何本か折れ、散らばってた。横っつらにも罅がみられる。ひろいあげ、とりあえず鞄に入れる。カメラが失せてた。紙片がいちまい、寝台のうえにみえる。――はじめにきた駅で待ってて。
 ふたたびこみあげてきて洗面台に走る。盥はいっぱいだった。くるしさはいつだって新鮮だ。おなじ階をまわってもかの女はなかった。
 階しをあがってみせる。室の戸のひとつひとつを検分にみせてふれる。そのなかにひとつだけ、半開きのをみつけた。断りを入れ、そのうちかわをうかがう。まず砂っぽい、よごれた足もとが覘いた。そこには入って左の壁に背をあずけた女の子が立って、こちらを見あげてた。寒色の、柄のあるワンピースを着て、かすかに笑む。その衣もどこかしらうすい汚れがあった。髪がおれの好みに短く、黒い。歩きまわって確かめる。どこにもいない。
   なあ、――ワンピースのがいった。ここからでえへんの?
  連れを探してる。見なかった?
 かの女はかすかに顎をふった。
   車でたとこやし。
 なにもいわずにしばしを過ごす。訊きたいことはあった。ばからしくおもえた。しかしこれが現実でなくてなんだろう。
   なあ、裏口の場所教えたげる。
   あんたのこと、ママがよんでるから早くしたほうがええで。
   待ってるから。
 黙したまんま降りていったら、さっそくでぶに腕を掴まれた。敷物のうえから犬が吠え声の支度をしてる。
    あんたの女、どういうつもりだ! 見てみてよ!
 あいたまんまの金庫がある。ダイアルがふたつと、錠のひとつの銀の箱で、あけられたまんまのむこうがわにお情けのような札がのこされてる。赤いカーテンが室の温度をぐっとおしあげ、ぼくは床を見、敷物の柄を憶えようと努める。おそらくは五分あまり、そのままうごかずにいた。
    どうしてもらおうかな。わたしのお金ちゃん。
   なにももっていないんです、すみません。
    そんならどうやってかたをつけんのよ?
   働いてもってきますよ。
    あんた、住所あるの?働いてるの?
   なにもありません。
    いまからかたをつけてもらうわ。
  そうとうにまいってたから胃腸液と迎い酒を頼んだ。赤い眼を干してから、ぐっと脂肪に近づく。これは芝居だから大事には至らない。これでも演技者なのだから。寝台にたがをからませ、おかみのちからをぼくに充たす。寝台は少し湿ってる。ながれかかるとき、たっぷり憎んでやるつもりで房さに両の手をむけた。でぶの片脚がぼくを蹴りあげる。そして蹴る、さらに蹴る。おおきな笑いが熾った。火事の匂いがしてきたから、ぼくはいっきにでぶの腹におもてをうずめ、その肉に祷る。さっさと終わりやがれって。
 おかあさんといって!――唾液が降りかかる。もう驚くこともなかった。蒸留酒とパプリカの臭いがおもざしを漏らして、あたらしくもないだろう、絵画技法になってた。青年にのしかかる水牛の時間。
 とてものろくさい時間がたくしあげられる襞のあるスカート、緑のパンティを脱がせ、あたらしい酒を空けさせた。指示通りにそいつを口移しにする。スコッチの錘がふたりを線画する。平手打ちがあざやかに決まった。ぼくの頬に温く。ふいに勃ってきた。もういちど口うつしてからおれはでぶの横腹と左肩とのど仏を見舞った。けれど酔っていて痛みどころではない。カーテンのすきまから洩れだした朝日が美しい。その美のうちで杯はまわりだし、やがてでぶは、ぼくの櫂にくちづけをしてきた。だからだ、一撃を喰わせてしまった。
 立ち上がってまたぐらをなおす。傷はない。痛みはある。かぞえもせずに金庫のをねじいれたら、壜をふたつばかし盗ってホールへでる。もういちど階をあがり、くだんの室にむかった。女の子はまだそこにいた。ぼくはじかに壜にくちつけた。かっこいいつもりで。
    ころしてくれたんでしょ?
   ああ、ばっちり。
   案内してくれ。
  かの女のみてくれを消えた少女と較べながら降り、裏口をでる。荒れた庭にいっぽんの柳が植わってた。これからどこへいくん?――とりあえず、あの駅だ。
 おもてで、通りを進むまえにいま一度、宿を見る。日ざかった宿のうえ、四つ目の窓に立ってるのがいた。広い窓の左右に男と女が見おろし、こちらをとらえてる。なんにも入ってない両の眼。それはこちらを見る。のっぺらぼうみたいだ。表情なく、恋人同士にもおもえない。そこをはなれ、列車に乗り込んだ。中心街がみえるとほっとして、少女をみた。ホームにおりて通勤客のあいまを歩いてるとかの女がいう。
    ありがとうやけどな、
    酒呑むひと、きらいやねん。
    そのうちひどい眼に遭うから。
    どっちも。
 それきりいなくなってぼくはもといたところに戻ってきた。駅で待つといっても広すぎてどこにいていいのかわからない。とにかく歩きまわってると、構内の本屋のまえ、老婆が箱のうえに坐ってた。
 和服に正座を決めこみ、背筋をのばしきり、まえを見てる。おそらくは往来だろう。そのまなこがこちらを向いた。まっすぐに射るものをこちらからも、まっすぐに据える。もしこれで耐え切れなければ、かの女は来ないかも知れない。うしろからだれかが見えてる。一分が経ち、勝ちにおもえた。二分経ち、負けにおもえた。三分、四分が経ってまた勝ちに思えた。さらに五分経って負けに思えた。そうして十五分はしてやっと向きを変えた。こっちがだ。


    ○


 カウンター席に坐って、となりの止まり木を見た。そこにはこんな紙片があったのを憶えてる。――あれは妹なんかじゃない。だれも気づかない。なんであいつがなにもかも知ってる? そのとき皺でできあがった男が入った。となりの紙切れのうえに坐る。こちらにむかって話し始めてた。それを聴きながらひとつの詩ができあがっていった。なんの苦しみもないかわりに、それはしらじらしいじぶんの、へたくそな写し書きのようだった。いまいちど再現してみよう。


   解きほどかれた夜のほどろに立っている男たち
   かれらに勝ち目はない
   おおきな鳥と
   小さな鳥がきて
   かれらやぼくを食い尽くすから

   それははじめ
   輝かしいようにおもえた
   雨に融けだした聖母像のように
   広告塔の少女のようにみせて
   羽が朝を切る
   よくよく見てみればなにもかもが衰えているし
   まったくのかざりごとでしかないのだけれども
   まったく愛しくおもえたものだった
   安ホテルの汚れたベッドのうえ
   ラジオが毀されるみたいに
   かの女が喪われたから

   もはや美はうごけないものたちの砦だ
   すべてのあくがれと
   すべての窓枠が燃えつきたのち
   すべてのさまよいがはじまるだろう

   けがれきったものでさえ
   光りを持ってると感じるのはもっともさみしいとき
   ぼくはあなたといたかったのだ
   けれど大急ぎで
   とまったまんまの劇が
   ある朝終わって
   ひきつぶされてゆくはいっぴきの黒い犬
   そのかたわれがいまのぼくだ


 書き終えてポケットにしまうと、まだ皺でできた男が話しつづけてた。
   おれはおもしろいのに、だれもわらってくれないんだ。
   だれも話しかけてこない。
   話しかけてこない、話をさせてくれない、話せない。
   話すことがない、話させてくれない。
   きのうもおとついも、会社にいたときにだってだ。
   友達なんか、くそ。
  きっといそがしいだけですよ、だれも。
  だれも?
   だれもだって?
   だれもだれもだれも、
   わしのまわりで働いてるやつなんかいねえよ!
   くそったれ!
 熱くなるのも醒めるのもはやい。かれは席をかわった。だれも話しかけるものはいない。おれだってそうさ。テレビ画面の宇宙遊泳を観てた。音を消されてる。宇宙船内をマラソンしてるひとりの男が、おなじ環のうちで走ってる。かれはいったい、どこへむかってるのか、顔また顔の通過、鳩尾と背中の痛みがやってくる。それでもとまらなかった。給仕が猫のようにおれをおもてにほうりこんだ。
 そうだ、そのとき、あの詩を側溝に流したんだ。――いま午前五時、見憶えのあるような太陽がのぞきはじめたところ。


                  Sun's Up!